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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

40年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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今日は何の日   文 月
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7月 文月(ふづき・ふみづき)

 七夕に因み、短冊に詩などを書いて、書道上達を願う行事から「文披月(ふみひらきづき)」が転じて「文月」になったといわれています。「披」は「ひらく」で「能楽や狂言を初演する」という意味で使われます。(三省堂国語辞典第七版)

 稲穂の膨らみを見る月であるため「穂含(ほふみ・ほふくみ)月」「穂見月(ほみづき)」から転じたという説もあります。

 誕生石は、「ルビー」が一般的です。それ以外にカーネリアン(carnelian)があります。丸く、赤色や橙色をしていて、「紅玉髄(べにぎょくずい)」の別名があります。網目模様が入っていると「瑪瑙(めのう)」と呼ばれます。

 誕生花として、ユリやハスがあります。トルコギキョウも、やはり7月の花です。

【Wikipedia】による7月の異名

おみなえしづき・をみなえしづき(女郎花月)、けんしんげつ(建申月)、しんげつ(親月)、たなばたづき(七夕月)、とうげつ(桐月)、ななよづき(七夜月)、はつあき(初秋)、ふづき(七月・文月)、ふみひろげづき(文披月)、めであいづき(愛逢月)、らんげつ(蘭月)、りょうげつ(涼月)


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■■弁理士の日 【今日は何の日】 7月1日

 今日から7月、文月ですね。まだ、梅雨が明けませんが、梅雨明けの後は暑い夏ですね。

■ 国民安全の日(こくみんあんぜんのひ)

 日本国民の一人ひとりが施設や行動面での安全確保に留意し、交通安全、火災等の災害発生の防止を図る国民運動を啓発するために記念日として制定されました。

 産業災害や交通事故の増加を受けて、1960年(昭和35年)5月6日閣議了解により制定されました。

 毎年7月1日には、産業災害防止対策審議会が設置され、答申が概ね毎年7月1日となることからこの日が選ばれました。

 毎年、この日に合わせ、災害発生の防止に功績のあった者を対象に安全功労者内閣総理大臣表彰が行われる他、各種の啓発行事が行われています。

 内閣府のサイトによりますと、下記の主旨がシルされています。

趣旨
 国民の一人一人がその生活のあらゆる面において、施設や行動の安全について反省を加え、その安全確保に留意し、これを習慣化する気運を高め、産業災害、交通事故、火災等国民の日常生活の安全をおびやかす災害の発生の防止をはかるため、「国民安全の日」を創設する


■ 弁理士の日

 
 1899年7月1日に、「特許代理業者登録規則」が制定され、弁理士制度が発足したことを記念しています。
 
 経営コンサルタントの資格である「経営士」もそうですが「弁理士」という資格も一般の人には余り馴染みがないかもしれません。
 
弁理士は、特許や実用新案など、いわゆる工業所有権といわれる権利取得のために必要な書類を、本人に代わって出願したり、審判等に関して必要となる手続きの代行をしたりすることができる国家資格です。
 
  図 日本弁理士会 ←クリック

図 1_216


■ 【今日は何の日】その他
◇ 安全運動、国民安全の日
◇ 銀行の日
◇ 更正保護の日
◇ 富士山開
◇ 沼津島上寺施餓鬼会
◇ 祇園祭(~28日)
◇ 博多祇園山笠(~15日)


■【経営コンサルタントの独り言】 弁理士さんの仕事をもっと増やそう!?

 弁理士という職業をご存じない方が多いかもしれません。

 特許などの申請を代行して下さる国家資格です。

 類似の申請がたくさんありますし、既存の特許等ですでに受理されていたりすることがたくさんあります。

 私達素人では、それを事前に知ることは大変困難です。

 また、審査官が認めてくれるような申請書の書き方も重要で、同じ申請でも書き方次第では認められないことも多々あるようです。


 国単位の特許の出願数は、その国の技術力の高さと相関関係があるといわれています。

 たくさんの特許申請は、国力を示すことにもなり、技術力の高さの証左でもあるのですね。



【きょうの人】

■ 北条 義時


 ほうじょう よしとき
 長寛元年(1163年)-元仁元年6月13日(1224年7月1日)

 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将で、鎌倉幕府の第2代執権です。伊豆国の在地豪族・北条時政の次男で、源頼朝の正室・北条政子の弟です。

 源氏三代にわたる将軍が途絶えた後の、鎌倉幕府の実質的な最高指導者といえます。

 幕府と朝廷の対立が激化しますと、後鳥羽上皇より北条義時追討の宣旨が全国に発布され朝敵となりました。幕府軍は、京都に攻め上り、朝廷を制圧した、いわゆる承久の乱となったのです。

 北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなりました。



 
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■■一年の折り返しの日 【今日は何の日】 7月2日

■ 半夏生(年により日付が異なる)

 
 半夏生(はんげしよう)は雑節の一つで、夏至から11日目にあたるこの日から、小暑前日までの五日間を指します。
 
「半夏」は、カラスピシャクという毒草のことで、「半夏生」とは、この毒草が生えるころという意味です。梅雨が明け、田植えも終わりになる頃で、よく大雨になることがあるので、その雨を「半夏雨」と呼びます。

【Wikipedia】 半夏生
半夏生(はんげしょう)は雑節の一つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生えるころ(ハンゲショウ(カタシログサ)という草の葉が名前の通り半分白くなって化粧しているようになるころとも)。
 七十二候の一つ「半夏生」(はんげしょうず)から作られた暦日で、かつては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。

関西では、この日に蛸を食べる習慣のある地方があります。



 
■ 一年の折り返しの日

 今日7月2日は「一年の折り返しの日」です。年始から183日目に当たり、今日の正午がその中間点になります。これは、平年の年だけで、閏年は、一年が366日ですので183日目が終わるとき、すなわち7月3日の午前零時が折り返し点になります。

 一年の平均日数は、365.2425日として計算しているので、実際にはちょっとずれることになります。その計算根拠は400年に97回の閏年をおいて、その誤差を修正しています。

 日本では、月の満ち欠けを基礎にしていましたが、明治5年(1872年)に新暦を採用しました。明治5年は12月2日が大晦日となり、新暦の明治6年(1873年)の元日がその翌日に始まりました。

■ うどんの日

 7月2日は「うどんの日」です。

 6月2日が「カレーの日」、7月2日は「うどんの日」で、その翌月の8月2日がそれを併せて「カレーうどんの日」となりました。

 カレーうどんが全国に浸透して100周年を記念して2010(平成22)年に「カレーうどん100年革新プロジェクト」という組織が中心となって制定しました。


■【経営コンサルタントの独り言】 どのようなうどんが好きですか

 駅のホームで良い匂いがするときは、ホームにある立ち食いそば屋さんからのことが多いですね。

 つい、匂いに誘われて、食べたくなりますが、一人で入る勇気がありません。

 街中でも、立ち食いそば屋さんの前を通ると、良い匂いがしてきます。

 そこでも誘惑されます。

 でも、なぜか入るのに抵抗があるのです。


 私の顧問先であったある社長さんは、夜の会議の前には必ずと言って良いくらい、立ち食いそば屋さんでうどんを食べてくるそうです。

 腹が減っては戦ができぬ。


 旅先では、うどん屋さんがあるとうどんを食べることがあります。

 たぬきうどんよりはきつねうどんが好きです。

 必ず卵を落としてもらいます。

 せっかく食べるのですから、少しでも栄養価のあるものを食べたいという心理が働きます。

 カレーうどんも好きです。

 山菜うどんやそばは、どういうわけか、あまり食べません。

 けっして、山菜が嫌いなわけではないのですが、繊維質よりはタンパク質という意識が強すぎるのでしょうか?


【きょうの人】

■ 明智 光秀


 あけち みつひで
 不明 - 天正10年6月13日(1582年7月2日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名で、本能寺の変で、その名はよく知られています。

 清和源氏の土岐氏の支流である明智氏に生まれ、父親の名前も伝わらない低い身分でした。そのため、歴史舞台に登場する前野光秀の詳細は、あまり伝わっていません。

 土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556年)に、道三が、息子義龍と長良川の戦いを行い、道三に味方した光秀は、義龍に明智城を攻められ、一族が離散しました。

 室町幕府の将軍足利義昭は、織田信長を含む各地の武将に上洛と自身の将軍擁立を促しました。朝倉義景の世話を受けていた光秀は、義昭が義景を頼ったことを契機に、光秀は義昭と接触を持つこととなりました。

 一時期、義昭と信長の両属の家臣でしたが、光秀は、金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に、秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功しました。

 比叡山焼き討ちでは、実行部隊の中心として武功を上げ、近江国の滋賀郡を与えられ、間もなく坂本城を築城します。

 この頃から信長に重用されます。ところが、原因は、いまだに明白ではありませんが、信長に反旗を翻し、本能寺の変に至ります。

 羽柴秀吉に攻められ、配下の黒田孝高が山崎の要衝天王山を占拠して、光秀ら十数騎で移動中、小藪から百姓の錆びた鑓で腰骨を突き刺されました。最期と悟った光秀は自らの首を「守護」の格式を表す毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)に包んで知恩院に届けることを言い残したといわれています。

 光秀の娘珠(後の細川ガラシャ)は、細川忠興の正室となっていることは、よく知られています。



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■■ソフトクリームの日 【今日は何の日】 7月3日

■ 西岸寺 施餓鬼会

 7月3日には、施餓鬼会(せがきえ)が各地で開催されます。

 原則として、開催される寺院の全ての檀信徒が参加すべき行事です。

 施餓鬼会とは、餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、それを行う法会を指します。

 特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修され。施餓鬼は特定の月日に行う行事ではなく、僧院では毎日修されることもあります。

 日本では。先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多いです。

 盆には祖霊以外にもいわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に精霊棚(施餓鬼棚)を儲けてそれらに施す習俗があります。

 水死人の霊を弔うために川岸や舟の上で行う施餓鬼供養は「川施餓鬼」といい、夏の時期に川で行なわれます。


 私の散歩コースに東京文京区の西岸寺があります。

 鉄筋コンクリート造り2階建て。1階は半地下の納骨堂墓地になっています。

 昭和2年、関東大震災の被害を省みて、当時としては前例のないコンクリート造り、耐震耐火の本堂を建設、本堂の下を納骨堂墓地にして、それまでの外墓地からご先祖一体づつを改めて焼骨にして納めました。

 昭和20年、戦災に遭い大屋根は焼け落ちましたが建物そのものは内部に火を入れずに焼け残り、ご本尊とその荘厳、過去帳等を焼失せずに済みました。

 修復や大改修をし、既に築80年を経た現存する最も古いコンクリート造りの本堂です。
 和尚さんが、毎朝、5時過ぎから掃除をしています。たばこのような物を口にくわえています。生臭坊主なのかもしれません。


■ ソフトクリームの日

 7月3日は「ソフトクリームの日」です。1951(昭和26)年に、アメリカ軍が独立記念日(7月4日)を祝うカーニバルを明治神宮外苑で開催しました。そこで日本ではじめてソフトクリームが販売されました。

 日本人がはじめてソフトクリームを食べたと記録されています。私は当時小さな子供でしたが、伯父が経営する洋裁店に米軍家族が出入りしていました。そこで、チューインガムやチョコレートだけではなく、アイスクリームやケーキなどいろいろな物をいただいた記憶があります。

 7月4日には、米軍基地で花火が打ち上げられ、日本人が自由に基地内に入れる例年の楽しみでした。そこで食べたソフトクリームは、バニラ、チョコレート、ストロベリーの三種類、おいしさもそうですが、量の多さには驚きました。

 因みに近年は終末に行うようで、今年は7月2日、すなわち昨晩行われました。病院から音だけは聞こえました。


【経営コンサルタントの独り言】 なぜか旅先でソフトクリームを食べたくなる

 日本におけるソフトクリームの歴史は、それほど古くはないのですね。

 舌の上で、スーッととろけるソフトクリームの感触を好きな人は多いのではないでしょうか。

 街中で、大きなソフトクリームのオブジェはあまりいただけませんが、観光地にたなびくソフトクリームの旗には、なぜか引かれてしまいます。

 衛生管理がキチンとできていないお店も多いようですから、売れていないお店では買わないようにしています。

 行列しているようなお店なら、大丈夫かな~~


 ソフトクリームは、和製英語で、正式な英語は「soft serve ice cream」というそうです。もともとは「soft-served iced cream」と表記されたのではないでしょうか。

 「牛乳などを主原料として作られた柔らかい冷食感の食べ物」と定義づけられているようですが、コーンに、クルクルと巻いたものが多いですね。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 両国西光寺施餓鬼会
◇ 小石川西岸寺施餓鬼会 


【きょうの人】

■ 加藤 楸邨


 かとう しゅうそん
 1905年(明治38年)5月26日 - 1993年(平成5年)7月3日)

  日本の俳人、国文学者で、本名は健雄(たけお)、水原秋桜子に師事しました。

 はじめ「馬酔木」に拠りましたが、苦学する中で同誌の叙情的な作風に飽き足らなくなりました。

 人間の生活や自己の内面に深く根ざした作風を追求し、石田波郷、中村草田男らとともに「人間探求派」と呼ばれる会派を立ち上げました。

 戦後は、戦災や社会運動への参加などを経て幅の広い作風を展開しました。また主宰した「寒雷」では、伝統派から前衛派まで多様な俳人を育てました。


■ 堀田 正英

 ほった まさひで
 寛永15年(1638年)-貞享5年7月3日(1688年7月29日)

 江戸時代前期の大名、常陸北条藩主で、江戸幕府の若年寄も務めました。

 寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の四男として生まれ、寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となりました。

 万治2年(1659年)に、中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられ、頭角を現してきます。

 その後も、書院番頭、大番頭と要職を歴任するようになり、延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられました。

 その後、若年寄に任じられ、1万3000石大名となり、常陸北条藩主となりました。

 貞享5年(1688年)7月3日に死去、享年51才でした。



 
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■■アメリカ合衆国独立記念日 【今日は何の日】 7月4日

■ アメリカ合衆国独立記念日

 7月4日は、アメリカ合衆国の独立記念日(Independence Day)です。

 1776年に、イギリスからの自由と独立を宣言し、アメリカ合衆国が誕生したことはよく知られています。フィラデルフィアに行った方は独立記念館で自由の鐘を見たことがあるでしょう。

 私が初めて行ったときには、記念館の廻り階段のところにつり下げられていました。ひびが入っているので、ならすことはできませんでしたが、触ることはできました。こんにちは、鐘専用の建物に陳列されています。

 フィラデルフィアは、思い出の深い地です。1972年に、商社マンであった私がはじめて高級顕微鏡の売り込みに成功しました。高級顕微鏡と思って持っていった商品が、メディカルスクールの学生用の仕様だったことを知ったときにはショックでした。

 今日が誕生日の人は、アメリカ国民がこぞってお祝いをしてくれます。東京郊外にある横田基地では盛大に花火が上げられます。

「独立記念日(Independence Day)」と呼ばれるのがもっとも一般的ですが、「Fourth of July」(7月4日)というだけで、独立記念日を指しています。

 1970年代にニューヨークで仕事をしていましたが、パレードは当然のこと、各地でバーベキューやピクニックの光景が見られました。7月4日を含む週は、独立記念日セールが行われ、その売れ行きが景気の良し悪しの判断にもなります。


■ 梨の日

 鳥取県東郷町(現 湯梨浜町)の「東郷町二十世紀梨を大切にする町づくり委員会」が2004年に制定しました。

「七(な)四(し)」で「なし」の語呂合せです。

 鳥取に「鳥取二十世紀なし記念館 なしっこ館」という施設があります。

 みずみずしい二十世紀なしを、理解するのに、持ってつけの施設です。


【経営コンサルタントの独り言】 アメリカ合衆国独立記念日と横田基地

 ミサイル打ち上げやEEZや領海侵犯など、国際的なルールに反する行為が横行している昨今です。

 万一の時には、国内の米軍基地がターゲットとなることは当然考えられます。

 基地問題というと沖縄がクローズアップされますので、意外と知られていないのが横田基地です。

 東京の西の郊外にある長大な滑走路を持っている飛行場です。

 それに目を付けたのが、石原元都知事です。

 羽田、成田に続く三番目の東京の飛行場として、横田基地を利用しようという構想でした。

 ニューヨークなど、大都市には複数の飛行場があります。

 発着便数を増やすためには滑走路だけではなく、空域管理のやりやすさなど、種々の問題が絡むようです。

 比較的空域の重なりの少ない横田基地は、石原さんには魅力的に見えたのかもしれません。

 米軍にとって重要な基地だけに、話はスムーズには行かず、石原さんは都知事の座を去ることになりました。

 因みに、横田基地には2018年にオスプレイが配備され、近隣の住民の不安を醸し出しました。


【きょうの人】

■ 義真(修善大師)

 ぎしん
 天応元年(781年)- 天長10年7月4日(833年8月26日)

 平安時代前期の天台宗の僧で、俗性は丸子連または丸子部、相模国の出身です。修禅大師とも称されます。

奈良興福寺で法相を学び、鑑真の弟子から授戒されて中国語にも通じていました。

 その後は、奈良・大安寺で最澄に師事し、804年(延暦23年)中国語の通訳(訳語)として最澄とともに唐へ渡り、最澄と同じく道邃から円頓戒を、順暁から密教の付法を承けて日本へ帰国しました。

 822年(弘仁13年)に、最澄が没した後には比叡山大乗戒壇初の授戒の伝戒師となり、戒壇院を建てました。

 824年(天長元年)初代の天台座主に就任し、832年(天長9年)には天台宗の僧として初めて維摩会の講師となりました。著書に『天台法華宗義集』があり、五十三才で歿しています。



■ 太田哲三 公認会計士・コンサルタントの草分け

 おおた てつぞう
 1889年(明治22年)5月8日-1970年(昭和45年)7月4日

 日本を代表する会計学者、公認会計士
 第二次大戦で荒廃してしまった経済や国土から、復興を果たすために、GHQ(米軍総司令部)のアドバイスを受け、日本政府は、アメリカの公認会計士のミッションを派遣しました。その時に、「直弟子」といえる黒澤清先生(当時横浜国立大学教授)を推薦しました。
 黒澤ミッション帰国報告を受け、太田先生は、公認会計士制度を構築すると共に、日本にも、アメリカで活躍している「経営コンサルタント」の制度が必要と政府に進言しました。並行して、「経営士」というコンサルタントの国家資格制度確立という動きを、日本経営士協会という日本で最初の経営コンサルタント資格付与団体として開設しました。
 伝聞によりますと、太田先生の影響力の大きい公認会計士制度の母体でありました団体の管轄官庁と、「コンサルタント」という職業の性格から、本来管轄すべき省庁との間で、管轄争いになってしまったそうです。
 その結果、経営士の国家資格化が延び延びとなり、最終的には、後者が中小企業診断士という、これまでに俎上に上がっていなかった資格を、他の国家資格のような職業独占権の付与なしでスタートさせることにしたそうです。
 太田先生をはじめ、多くの関係者が二つの資格を統合した、職業独占のある国家資格にする努力を続けました。しかし、省庁間の既得権争いは、面子の問題も絡み、難しかったようです。今日、経営コンサルタント資格が、経営士と中小企業診断士という二本立てになってしまったのは、このためであるそうです。

 太田先生は、商学博士(一橋大学)で、一橋大学名誉教授、中央大学教授等で教育に力を入れると共に、公認会計士・経営士の資格制度の定着にも努力されました。監査法人太田哲三事務所(EY新日本有限責任監査法人の前身)の創設者で、日本公認会計士協会の初代会長、日本経営士協会の名誉会長を務めました。
 実業界では、長浜ゴム工業(のちの三菱樹脂)社長を務めたり、三菱化成(三菱ケミカルホールディングスの前身)監査役を務めたりされました。従三位・勲二等瑞宝章。




 
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■■江戸切り子の日 【今日は何の日】 7月5日

■ 江戸切り子の日

 7月5日は「江戸切子の日」で東京カットグラス工業協同組合が制定しました。江戸切子の文様の一つに「魚子(ななこ)」というのがあります。この「なな(7)こ(5)」から7月5日がえらばれました。 http://www.edokiriko.or.jp

 さつま切り子は広く知られていますが、東京に江戸切り子のような伝統工芸品があることは、東京周辺以外の人はあまりご存じないかもしれません。江戸風鈴や木工細工をはじめいろいろな工芸品が今日にまで技術伝承されています。

 私のウィスキータンブラーは、妻と娘が十数年前に誕生祝いに買ってくれた江戸切り子です。とはいえ、下戸の私は、もっぱら麦茶を飲むのに使っています。以前は、梅酒を飲むのに使っていました

図 4_217

 

■ ビキニスタイルの日

 1946年7月5日に、フランスのルイ・レアールが、世界で最も小さい水着としてビキニスタイルの水着を発表しました。

 「ビキニ」という名前の由来が、1946年7月1日にアメリカが原爆実験が行われたビキニ環礁にあるとは知りませんでした。

 シチリア島にある5世紀頃のローマ帝国時代のモザイクには、ビキニに似た服で運動する女性が描かれているそうです。すなわち、ビキニスタイルは大昔からあったということです。

 考案者とされるレアールは、自動車エンジニアでしたが、母親が下着会社を経営しており、その手伝いをしているときに考案したのです。

 同じ頃、フランスのデザイナージャック・エイムによってほぼ同様の水着が考案されました。なんと、その名前場「アトム(原子)」だといいます。

 デザイナーとしては無名だったレアールに対し、エイムはすでに高い評価を得ていたデザイナーでした。そのため「ビキニを広めたのはエイム」とされることがあるそうです。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 栄西禅師忌
◇ 清水慶雲寺せがき

【経営コンサルタントの独り言】

■ 高山寺と栄西禅師

 栄西と高山寺は切っても切れない縁があります。

 高山寺といえば、鳥獣戯画が有名ですが、栄西が持ち帰って茶の種をもとに茶が栽培されたのが高山寺なのです。

 高山寺には、日本で最初の茶畑があります。

  高山寺写真
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_kousanji.htm



 梅雨の中休みと雲の流れ

 梅雨の時期は、傘を持っての早朝ウォーキングがおおいです。

 久々の青空が見えたときには、吸い込まれるような思いがし、見入ってしまうことがあります。

 低層の雲は西の方向に、中層の雲は、それよりやや北向きに流れていました。

 高層の雲は、留まっているのかと思っていましたら南東方向にゆっくりと流れていました。

 雲は同じ方向に流れるものと思っていましたが、高さによって流れが異なることが多いのでしょうね。

 思い込み、決めつけはしてはいけないと自分に言いきかせていますが、この様なところで馬脚を現してしまいました。

 詩になるような光景ですが、詩心のない文章で、お粗末様でした!



【きょうの人】 

■ 栄西禅師

 明菴栄西
 みょうあん えいさい/ようさい
 永治元年4月20日(1141年5月27日) - 建保3年7月5日(1215年8月1日)

 平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、日本における臨済宗の開祖で、京都・建仁寺を開山しました。天台密教葉上流の流祖でもあります。

 字が「明菴」、諱が「栄西」です。

 中国より持ち帰った茶の木の種をもとに、廃れていた喫茶の習慣を日本に再び伝えたことでも知られています。

 ちなみに、京都高山寺は、鳥獣戯画図で有名ですが、ここに日本で最初の茶畑があります。

「喫茶養生記」という上下2巻からなる本を書いていて、上巻では、茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする茶の効用をといています。下巻では、飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に関して桑の効用や用法について説いています。

 このことから、「茶桑経(ちゃそうきょう)」という別称もあるほどです。

「誓願寺盂蘭盆縁起」は、栄西の肉筆文書で国宝となっています。福岡市・誓願寺に滞在した時に書いたといわれ、同寺が所蔵(九州国立博物館寄託)しています。





■■
■■朝顔まつり 【今日は何の日】 7月6日

■ 朝顔まつり

 東京都台東区下谷にある入谷(いりや)鬼子母神堂境内で毎年6~8日まで三日間にわたり朝顔まつり(朝顔市)が開催されます。

 この朝顔市と言いますのは、入谷鬼子母神を中心として、言問通りに百二十軒の朝顔業者と百軒の露店(縁日)が並び、毎年四十万人の人出で賑わいます。

 江戸っ子の気っ風の良さを見せる業者と買い手の掛け合いは最近はあまり見られなくなりました。

 浴衣姿に朝顔の鉢を持つ姿は、絵になります。


【公式サイトより】

 入谷の朝顔が有名になったのは江戸末期の文化・文政の頃です。最初は御徒町の下級武士、御徒目付の間で盛んに栽培されておりましたものが、御徒町の発展と江戸幕府の崩壊に伴いまして、入谷に居りました十数件の植木屋が造るようになります。そしてその出来栄えが大変素晴らしかったので、明治中期になりますと、往来止めをしたり、木戸銭を取って見せるほど有名になります。なぜ入谷の朝顔がこんなに盛んになったのかと言いますと、入谷田圃の土が朝顔造りに適していたこともありますけれども、当時流行しました朝顔と言いますのは「変わり咲き」です。この「変わり咲き」と言いますのは朝顔の花が、桔梗の花のように咲いたり、牡丹の花のように咲いたり、二重に咲いたりして、花粉の交配によって色々な花を咲かせる事ができたので、最盛期には一千種類もの朝顔があり、変化にとんだ花を咲かせ楽しませてくれてたのであります。




■ 公認会計士の日

 その7月6日は日本公認会計士協会が1991(平成3)年に制定した「公認会計士の日」でもあります。

 1948(昭和23)年7月6日Bに「公認会計士法」が制定されました。これに先立ち、戦後の荒廃からいち早く立ち直るために、GHQの進めもあり、日本でも公認会計士の制度導入が決まりました。

 導入を前にアメリカに視察団が派遣されることになりました。黒沢清先生が団長で、政府から派遣され、アメリカの公認会計士制度の視察をしました。その折に、コンサルタントという職業について関心を持たれました。帰国報告を契機に太田哲三先生とともに、日本経営士協会が誕生する契機になったのです。

 従って、経営士は中小企業診断士に先行すること10年、日本で最初にできた経営コンサルタントの資格です。中小企業診断士がまだ「中小企業診断員」と言われる時代から、中小企業診断士の育成にも同協会がご協力をしてきました。

 中小企業診断士法が制定されますと、経営士は大企業を含む民間企業主体のコンサルティングを担当し、中小企業診断士は、中止企業振興法に基づく業務として、官公庁や自治体などを活動の中心となっていったようです。

 それが今日代表的な経営コンサルタント資格へとつながってきました。日本経営士協会に入会すると、オリエンテーションが開催されますが、その際にさらに詳しい説明があります。

 日本公認会計士協会 ←クリック
 日本経営士協会 ←クリック


■ 【今日は何の日】その他
◇ 鎌倉光明寺開山(良忠上人)忌


【経営コンサルタントの独り言】

■ 社長にコンサルタント情報はいらない??
 
 経営者・管理職というのは、専門莫迦であってはならないと考えています。広い視野を持たない経営者・管理職は、自社の経営上においても狭い見方しかできません。
 
 経営者・管理職が「経営コンサルタントとは何か」をきちんと理解していなければ、経営コンサルタントに依頼することはないでしょう。
 
 大企業が経営コンサルタントに多大なお金を投じていると言うことをお聴きになると思います。世の中に経営コンサルタントという職業が存在し続けると言うことは、それなりの価値があるからです。
 
 逆に、経営コンサルタントには、経営に関する知識・情報が不可欠です。ですから、私どものブログでは両者に関する情報をお届けしています。
 
 ものごとは、一面からのみ見るのではなく、裏を返していることも大切と信じています。



【きょうの人】

■ 惠心僧都源信


 えしんそうずげんしん
 天慶5年(942年)- 寛仁元年6月10日(1017年7月6日)

恵心院
(比叡山延暦寺横川兜率谷)
源信(げんしん)は、

 平安時代中期の天台宗の僧で、惠心は、恵心僧都(えしんそうず)と、浄土真宗では、七高僧の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称されます。

 大和当麻で生まれ、幼少時に比叡山に登り、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学び、天暦9年(955年)に得度しています。

 天暦10年(956年)には、わずか15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれました。

 寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂しました。臨終にあたって、阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして、合掌しながら入滅したといわれています。


■ 良忠

 りょうちゅう
 正治元年7月27日 - 弘安10年7月6日 (1199年8月20日 - 1287年8月16日)

 鎌倉時代中期の僧で、浄土宗第3祖、諱は然阿(ねんな)、記主禅師の諡号が滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られています。

 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。

 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。

 そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。

 鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。

 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。

 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。




 
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■■七夕 【今日は何の日】 7月7日

■ 小暑(年により日付が異なる)

 今日は、二十四節気の一つである「小暑」です。小暑は夏至から15日後で太陽の黄経が105度になったときです。

 そろそろ梅雨が明けるころで、本格的な暑さがこれから始まる頃という時期です。すでに九州南部は梅雨明けをしたと梅雨明けがスタートしてきました。例年ですと7月末近くまで梅雨明けしない東京ですが、今年はどうでしょうか。


■ 七夕

 7月7日と言えば五節句の一つである「七夕」です。

 七夕には各地で日本の風習が残っています。子供の頃、笹に短冊に願い事を書いたり、折り紙や千代紙を切って飾りを作ったりしました。

 孫が5歳の七夕祭の時に、「背が高くなるように」と書いたそうです。クラスで後ろから二番目なのにこの願いを書いたと言うことは「一番背が高くなりたい」という意味を込めているのでしょう。負けず嫌いが出てきているようで将来が楽しみです。(つまから爺莫迦といわれています)

【Wikipedia】 七夕
 七夕(たなばた、しちせき)は、日本、台湾、中国、韓国、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。旧暦の7月7日の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように、7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。五節句の一つにも数えられる。
 古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
 元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。

 五節句とは、下記を言います。

 1月7日 人日(じんじつ)七草
 3月3日 上巳(じょうし/じょうみ)桃の節句、雛祭り
 5月5日 端午(たんご)菖蒲の節句
 7月7日 七夕(しちせき/たなばた)たなばた、星祭り
 9月9日 重陽(ちょうよう)菊の節句

 「節句」の日には、というのは日本の宮廷において「節会(せちえ)」と呼ばれる宴会が開かます。5節句は、公式行事として江戸時代に定められました。

 因みに、新暦では3月3日、5月5日、7月7日は同じ曜日となるということをご存知ですか?


■ 成田山祇園会

 成田山祇園会(ぎおんえ)は、成田山新勝寺の御本尊不動明王の本来の御姿とされる大日如来に国土安穏、万民豊楽、そして国民の心願成就を祈願するお祭りです。

 成田山では年に一度の祭礼期間に限り、大日如来をおまつりする奥之院を開扉し、光明堂にて天国宝剣を特別奉安しています。

 期間中に限り奥之院が開扉され、秘仏としておまつりする大日如来を参拝することができます

 光明堂の裏手にある奥之院は石壁に囲まれた、奥行き11.15m、高さ1.65m、幅1.41mの洞窟で、その中に大日如来(不動明王の本地仏)が安置されています。

 天国宝剣頂戴(あまくにのほうけんちょうだい)も行われます。

 成田山をお開きになった寛朝大僧正が朱雀天皇より賜った宝剣を身体に当てて御加持します。

「天国宝剣(あまくにのほうけん)」とは、開基・寛朝大僧正が朱雀天皇より賜った成田山第一の霊宝です。

「此の宝剣を拝する時は、乱心狂気もたちどころに止み、熱病寒疾も速やかに癒え、諸々の魔障を除き、息災成就を得る」と言い伝えられています。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 成田山不動山祇園会
◇ 奈良吉野蛙とび
◇ 法明上人忌


【経営コンサルタントの独り言】 七夕と願い事

 私が子供の頃というのは、近くに竹藪があり、そこのご主人からいただいてきました。

 自分で好きな竹を持っていっても良いといわれ、大きな竹を切り出しました。

 ところが、それを自宅まで持って行くのが大変。

 もちろん引きずりながらなのですが、周囲の人に迷惑を掛けながらのことです。

 自宅に持って帰ったのは良いのですが、飾る場所も、取り付けも大変。

 翌年からは、小振りの竹にしました。


 昔ながらに「文字が上手になりますように」という願い事を書いた記憶があります。

 小さい頃は泳ぎが上手ではなかったので、水泳のことを書いたようにも思えます。

 今になってみると可愛かったですね。

【きょうの人】

■ 崇徳天皇

 すとくてんのう
 1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉

 第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)で、諱は顕仁(あきひと)です。

 鳥羽天皇の第一皇子で、母は中宮・藤原璋子(待賢門院)という、素晴らしい血統を引き継いでいます。譲位後は新院、しかし、その後、平安時代末期の1156年(保元元年)に、貴族の内部抗争である保元の乱で、後白河天皇に敗れ、讃岐に配流後は讃岐院とも呼ばれました。

 崇徳院は、在位中から頻繁に歌会を催し、太上天皇になってからは和歌の世界に没頭しました。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の歌壇は崇徳院を中心に展開しました。

 鳥羽院とうまく行かず、上皇としては実権がありませんでした。保元の乱後、鳥羽法皇が崩御しても、その地位は快方に向かわず、讃岐に流罪となってしまいました。

 雨月物語に代表されますように、崇徳院の怨念が数々の禍を引き起こしていると、非難囂々の晩年でした。




 
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■■質屋の日 【今日は何の日】 7月8日


■ 中国茶の日 お茶の定義は?

 NPO法人日本中国茶協会が製定しました。

 中国語の七(チー)と日本語の八(や)で「ちゃ」の語呂合せでこの日になりました。

 日本中国茶協会によりますと、お茶とは、“茶樹の葉”を原料としたつくられたものの総称ということです。

 茶樹は学名をカメリア・シネンシスCamellia sinensisといい、ツバキ科ツバキ属の植物です。

 茶樹の原産地は諸説ありますが、中国西南地域と考えるのが定説です。

 では、中国茶とはどのようなものなのでしょうか。

 地理的に中国大陸と台湾に産する“茶”の総称ですので、日本茶は「お茶」ではないのでしょうか。

 中国茶は、細かな差異まで区別すると数万種類もあると言われています。大雑把に捉えても2千種は下らないようです。

 それらを“製造方法”と、製造された“お茶の性質”により、大きく6つのグループにしたのが「6大茶類」と呼ばれる分類で、「緑茶」「黄茶」「黒茶」「白茶」「青茶」「紅茶」のグループがあります。


■ 質屋の日

 7月8日は「質屋の日」です。その制定は言わなくてもわかるように「しちや」すなわち「しち」と「や」をとったのです。質屋→七屋→セブン屋→セブン銀行→一六銀行などと変化した隠語が使われてきました。

「質」を裏文字に染めたのれんも記憶にあります。因みに、関西では「ひち」と書かれた看板は「しち」が変化して「ひち」になったと聞いたことがあります。

 質屋業は鎌倉時代にまで遡ると言われています。消費者金融が盛んになる1960年代頃までは庶民金融として不可欠でした。質屋はお金持ちというのも通念でした。

 1970年代に入ると、無担保・無保証人でサラ金のはじめ里である「団地金融」がスタートし質屋の廃業が続きました。

 今日では貸付という面での金融というよりもむしろ宝飾品や貴金属、有名ブランド品などの売買が主体となっています。掘り出し物があるために質屋組合のイベントの常連もいるほどです。


【経営コンサルタントの独り言】 一六銀行のビジネスモデルが大きく変質

 質屋さんのことを「一六銀行」と呼ぶことはご存知の方も多いでしょう。

 質屋というのは、経済的に厳しい人達のためのものというイメージから、かつてはあまり良い響きではありませんでした。

 そこでこのような呼び方をしたのだろうということは想像できます。

「セブン銀行」と呼ばれていたこともあるようです。

 今日では、セブン銀行といえば、インターネットバンキングの大手です。

 昔とはすっかり違って来ました。

 質屋さんのビジネスも、物を担保にお金を貸すお店というイメージではなく、宝飾品や貴金属、有名ブランド品などの売買するビジネスに業態変化をしています。

 近年では、掘り出し物があるということから質屋組合のイベントの常連さんも多いそうです。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 大相撲名古屋場所(第二日曜日~)
◇ 香月院忌


■ 聖宝(理源大師)

 しょうぼう
 天長9年2月15日(832年3月21日)- 延喜9年7月6日(909年7月25日)

 平安時代前期の真言宗の僧、醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖でもあります。また、後に当山派修験道の祖ともされています。

 俗名は、恒蔭王(つねかげおう)で、天智天皇の6世孫にあたり、父は、葛声王(かどなおう)といい、諡号は、理源大師です。

 三論、法相、華厳などを学び、後に、密教を真雅、真然より授かっています。醍醐寺を開き、また東南院を建てて、三論宗の本拠地としています。

 役行者(役小角)の遺風を慕って、その最高に務めたので、後世、修験道の中興と言われるようになりました。

『古今和歌集』に歌一首があります。

 聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になるのだそうです。

 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。

 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。

 そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。

 鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。

 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。

 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。




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■■四万六千日と浅草ほおずき市 【今日は何の日】 7月9日

■ ジェットコースターの日

 1955年7月9日に開園した後楽園遊園地に、日本初の本格的なジェットコースターが設置されたのを記念して制定されました。

 日本では、ジェットコースターと言われますが、英語では「ローラーコースター(英: roller coaster)」といいます。

 遊園地に設置されているアトラクションのなかでも、絶叫マシン(スリル・ライド)等と呼ばれて大人気です。

 日本で、ジェットコースターと呼ばれるのは、ジェット噴射するように加速していくことからきた呼称のようです。勿論ジェットエンジンは使われていません。


■ 四万六千日と浅草ほおずき市

 「四万六千日(しまんろくせんにち)」は、観音菩薩の縁日の一つです。7月9日に観音様を参詣すると、46,000日を参詣したのと同じ功徳が得られると言われ得ています。

 東京浅草(あさくさ)の浅草寺(せんそうじ)では、9~10日境内で「浅草ほおずき市」という縁日がひらかれます。雷除けの赤玉蜀黍(あかとうもろこし)が江戸時代には売られていましたが、今日では酸漿(ほおず)になり、雷よけの効能はかわりません。

  浅草寺

 私の会社が所在する東京都文京区の護国寺にも観音様があり、同じ9~10日に雷よけの行事があります。護国寺は、徳川歴代将軍のゆかりの名刹です。真言宗豊山派のお寺で、山号は「神齢山悉地院護国寺」といいます。
 
 

■ 【今日は何の日】その他
◇ 鴎外忌
◇ 陸奥東昌寺開山忌
◇ 佛智禅師(山曳)忌
 



【経営コンサルタントの独り言】

■「神宿る島」宗像・沖ノ島の世界遺産登録


 和歌山県熊野那智大社で「那智の大祭」が催されました。

 那智といえば熊野古道で知られる、ユネスコ世界文化遺産です。


 その後「神宿る島」宗像・沖ノ島の5か所8遺産すべてが世界遺産として認められたりと、処々で世界遺産が認められています。

 三女神の一神の田心姫神(たごりひめのかみ)は、沖ノ島の沖津宮に祀られています。

 湍津姫神(たぎつひめのかみ)は、筑前大島の中津宮に、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)は辺津宮 にそれぞれお祀りされています。

 かつて、宗像大社を訪れたときに、その一部に触れてきました。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyushu/munakatataisha/munakatataisha3.htm#01(1行にC&Pして利用して下さい)



          左が第二宮で、右が第三宮です。


【きょうの人】

■ 護国寺 桂昌院
 
 徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681年)に創建された。開山は亮賢。本尊は如意輪観音。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。近代以降は宮家の墓所(豊島岡墓地)が造られた。これは1873年(明治6年)、明治天皇の皇子(稚瑞照彦尊)の薨去を機に護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。
 
  護国寺

 もう30年近く前になりますが、私がお世話になった会社の社長さん(還暦前になくなる)の葬儀もここで行われました。その時は人出の多かったにも関わらず社長未亡人が私に声をかけてくださったのですが、何も励ましの声をかけられず恥ずかしい思いをしました。従兄の娘が、社長のお嬢さんと学習院の初等科で同級生をしていたこともあり、個人的にも親しくさせてもらっていました。

 経営コンサルタント業をやっていると、いろいろな経営者・管理職の葬儀に立ち会いますが、その中でも立派な葬儀の一つでした。


■ 狩野 正信


 かのう まさのぶ
 永享6年(1434年)? - 享禄3年7月9日(1530年8月2日)?

 室町時代の絵師で、狩野派の祖です。狩野派は、室町時代から明治に至るまで400年にわたって命脈を保ち、常に日本の絵画界の中心にあった画派です。

 この狩野派の初代とされるのが、室町幕府に御用絵師として仕えた狩野正信です。

 京は幕府御用絵師の宗湛(小栗宗湛)に師事したようです。

 古記録から、正信は寛正4年(1463年)には、京で絵師として活動していたことが明らかで、この時すでに幕府御用絵師の地位にあったといわれています。

 長男は、やはり絵師の元信です。

 没年は享禄3年(1530年)とされ、数え年97歳で没しました。



■ 澤 太郎左衛門 没 幕末から明治期の幕臣・海軍教官

 さわ たろうざえもん
 天保5年6月4日(1834年7月10日) - 明治31年(1898年)5月9日

 幕末から明治期の幕臣で、技術者、海軍教官でもありました。名は貞説、幼名はえい太郎(鍈太郎)です。

 箱館戦争時に成立した旧幕府軍政権(蝦夷共和国)の開拓奉行です。海軍造兵総監・技術中将の澤鑑之丞は,彼の子息です。

 日本海軍において海上砲の操砲訓練を行ったのは、澤が最初です。

 榎本武揚が、オランダ渡航中に著した『航海日誌』は、榎本がセントヘレナ島で海に投げ捨てようとしたところを澤が惜しんで預かりました。

 その時に判断に任せて行うことは、時として大きな損失に繋がることがあります。茶話の陰で貴重な記録が残されたのです。



 
■■【今日は何の日】納豆の日 7月10日

■ 納豆の日

 7月10日は「な(7)とう(10)」の語呂あわせで「なっとう」、すなわち「納豆の日」です。

 納豆の日を制定したのは、関西納豆工業協同組合で、1981年に関西地域限定の記念日として制定されました。全国納豆協同組合連合会が1992年に、改めて全国の記念日としました。

【全国納豆協同組合連合会サイト】
 納豆の名前の由来ですが、寺の納所(台所)で作られたことから「納豆」と名付けられたと言われています。「煮豆を神棚に備えたところ、しめなわに付着していた納豆菌の働きで納豆になった。神に納めた豆=納豆」という説もあります。

  図 全国納豆協同組合連合会 ←クリック

図 1_218


■ 【今日は何の日】その他
◇ 浅草観音四万六千日
◇ 善通寺宗祖降誕会
◇ 聖聡誕生




【経営コンサルタントの独り言】 海外でも納豆の優れた健康効果が見直されている

 先日、TVで海外の人が納豆を食べるようになってきたという報道がありました。

 しかし、ネバネバはあまり好まれないようで、納豆を洗って食材として利用するケースが多いようです。

 あの独特な臭いは、日本人でも西日本の人はあまり好まないということも聞いています。
 納豆が、なぜ結構に良いのかということで「ナットウキナーゼ」という学術用語は時々耳にするようになりました。

 納豆から抽出され精製された酵素のことをいうそうです。

 その基となる納豆菌は、稲の藁に多く生息していることも知られています。

 水戸納豆をお土産屋さんで見ますと藁に包まれていますね。

 年配の人ですと、藁納豆を食していたことをご記憶でしょう。

【Wikipedia】より抜粋

 枯草菌の一種である。稲の藁に多く生息し、日本産の稲の藁1本に、ほぼ1000万個の納豆菌が芽胞の状態で付着している。稲わらは乾燥しており他の細菌やカビが死滅しやすい。

 芽胞は熱に強く、旧来の納豆の製法では使用する稲わらを熱湯で煮沸して納豆菌以外の雑菌を死滅させていた。納豆菌は人体の腸内ではオリゴ糖と同じく整腸作用が確認されており、市販されている医薬品にもこれを含むものがある。


【きょうの人】

■ 佐伯 田公 空海の父親


 さえき の たぎみ

 奈良時代から平安時代初期にかけての播磨国造の役人でした。讃岐国多度郡の豪族で、多度郡擬大領・佐伯男足の子とする系図があります。

 真魚(のちの空海)の父親で、真魚を中央官人にするため、妻の実家である阿刀氏の一族であった阿刀大足の尽力によって、大学寮明経科に入学させました。しかし、真魚は仏門の世界に入ることとなり、田公は憤慨したという記録があります。

 一族は、真言宗の発展を支え、善通寺(ぜんつうじ)の開基となりました。

 善通寺は、香川県善通寺市にある寺院、真言宗善通寺派総本山です。本尊は薬師如来で、広大な境内は、創建地である東院(伽藍)と、空海生誕地とされる西院(誕生院)に分かれています。

 7月10日には、善通寺宗祖降誕会が催されます

■ 畠山重忠 鎌倉幕府の有力御家人


 はたけやま しげただ
 長寛2年(1164年)-元久2年6月22日(1205年7月10日)
 享年42

 畠山重忠は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将で、鎌倉幕府の有力御家人の一人でした。

 父親が平氏方の武将であったために、源頼朝の挙兵に際して当初は敵対していました。しかし、のちに白旗を持って頼朝に会い、臣従しました。

 『源平盛衰記』によりますと、その白旗は、重忠の先祖の平武綱が八幡太郎義家(源氏本流)より賜ったものとのことで、頼朝を大変に喜ばせたと記述されています。重忠は、治承・寿永の乱で活躍し、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、相模国へ進軍、頼朝の大軍は抵抗を受けることなく鎌倉に入れました。その功績と人柄が買われて、幕府創業の功臣として重きをなしました。

 しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子とともに討たれました(畠山重忠の乱)。重忠は、武蔵国(埼玉県深谷市付近)を拠点としていましたが、当時、「武蔵を制する者は、板東(関東)を制す」といわれるほど、重要な地でした。

 時政は、北条氏が板東で存在や功績を認められたいという思いから、息子・義時や部下達の反対を押し切って、重忠に策略を仕掛け、強引に滅ぼしたといいます。

 存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称されるほど人望があつかったのです。事後、時政に反感を持つ、息子の義時等により時政は追放されることになりました。そのことからも重忠の無実は明らかだったようです。

 戦前の教科書には、必ずといって良いほど、畠山重忠の忠君物語は掲載されていました。


■■【今日は何の日】職業教育の日 7月11日

■ 職業教育の日

 7月11日は「職業教育の日」で、全国専修学校各種学校総連合会が制定しました。1975(昭和50)年の学校教育法の改正で「専修学校の制度」が定められたことを記念しています。

 戦後復興をいかに素早く行うかという「アメリカ教育使節団報告書」を参考にしたりして、1951年(昭和26年)産業教育振興法が成立しました。

 その年の8月に当時の通産省に産官学の人達が集い、今日の「経営士」が経営コンサルタント資格として討議されました。内閣府認証特定非営利活動法人・日本経営士協会の前身である日本計理協会で、この資格が討議され、1953年(昭和28年)9月10日に正式に「経営士」の資格が発足しました。


■ 真珠記念日

 1893年7月11日に、三重県鳥羽町の御木本幸吉夫妻が、初めて真珠の養殖に成功しました。

 養殖場を始めて3年経ってようやく半円形の5粒の真珠が収穫されたといいます。さらに8年かかってようやく丸い真珠ができたといいますから、結構難しいことなのですね。

 因みに、6月の 誕生石は真珠です。そのため日本真珠振興会では6月を「真珠月間」に、6月1日を「真珠の日」としています。

 ミキモトの関連企業として御木本製薬という会社があります。2010年10月に同社を訪問しました。

 真珠といえば「御木本」を日本人なら誰もが連想するでしょう。19世紀の末に世界に先駆けて真珠養殖に成功した御木本幸吉の伝記は、私どもが子供の頃には必読書の一つと言われるほどでした。

 第2次世界大戦の奢侈品禁止令の発布で真珠の製造販売を中止せざるを得ない窮地に追い込まれた御木本ですが、それで負けていないところが伝記が読まれる理由です。中国に伝わる漢方思想に「真珠を飲むと不老長寿を保ち、美容と健康に輝く」ということがあり、そこに着目しました。

 真珠タンパク質を含んだ真珠カルシウム剤の製造に成功し、御木本製薬株式会社を創立し、今日の「御木本化粧品」が誕生したそうです。

 同社を訪れて、まず驚いたのは工場の大きさもさることながら研究所の充実です。1階から3階まで、生化学を中心とした研究・検査機器が充実していました。化粧品というのは、肌に直接つけることが多いので肌に敏感な人からのクレームは大きな賠償問題に発展します。S社やK社のような大きなクレームにこれまで遭遇してこなかったのは、このような設備がものをいっているのでしょう。

 建物も、IC工場ほどではないですが、空調管理がされていて、差し障わりのない部分を見学させていただくだけにもかかわらず、使い捨ての宇宙服のようなつなぎ服を着せられ、途中で複数回も手を洗わせられました。それだけ空中浮遊物などを押さえる管理がされているのです。

 われわれ経営コンサルタントの目から見ても、すばらしい管理がなされているといえます。

 ミキモト化粧品は、関西地方の方はご存知ですが、首都圏でも高級化粧品として知られています。1瓶5万円という商品から比較的手頃な価格帯まで品揃えがなされています。

 30年ほど前、営業研修で同社と関わりを持ちましたが、「真珠を通して美を追い求める」といる創業理念を守り、御木本幸吉の名を傷つけない努力が処々に見えました。些細なことですが、社員が訪問者に対して挨拶をきちんとしていることからもそれがうかがえました。

  図 ミキモト ←クリック

■ 【今日は何の日】その他
◇ 川崎寿福寺せがき
◇ 沼津松蔭寺先生が忌会
◇ 沼津永明寺大施餓鬼会

図 3_219

図 4_220図 2_221
 
 
 
 

【経営コンサルタントの独り言】

■ ビジネスパーソン・ドックでキャリアプラン


 7月11日は「職業教育の日」でした。

 全国専修学校各種学校総連合会が制定したのですが、日本におけるビジネススクールのあり方の見直しという観点でも興味深い日です。

「日本人は勤勉」と言われ続けて来ましたが、近年は、「日本人の労働生産性は低い」という国際的な統計データが出て、政府は大慌て。

 非正規雇用との問題も絡め、「働き方改革」を推進し始めました。


「同一労働同一賃金」

 これでは、人間の能力の高い人には不平等です。

 個人別の能力の評価を加味するといっていますが、せいぜい数%の違いでしかないでしょう。

 私達、経営士・コンサルタントの報酬は、数倍から数十倍の違いが出ます。

 プロにとっては、「同一労働同一賃金」はあり得ない考え方です。


「企業は人なり」と言われますが、経営コンサルタントの業務の一つが社員研修です。

 自分は、どの様な人間であるのか、ありたいのか

 それを明確にして、業務計画等を立てて仕事の取り組めるようにする契機がビジネスパーソン・ドックです。

 これはまたキャリアプランを再構築する用途にも使えます。

 企業の健康診断は、「ビジネスドック」を用います。

「人間ドック」をもじった命名ですが、企業の簡易診断、自己診断に利用できます



【きょうの人】

■ 聖聡


 しょうそう
 正平21年/貞治5年7月10日(1366年8月16日)- 永享12年7月18日(1440年8月15日)

 南北朝時代から室町時代中期にかけての浄土宗の僧で、増上寺の基礎を築き、開山しました。父は、下総国守護千葉氏胤、浄土宗第8祖。母は新田義貞の妻と伝えられています。

 はじめ千葉妙見寺(真言宗寺院で明治初年の廃仏毀釈により千葉神社となる)で、真言密教を学びました。

 元中2年/至徳2年(1385年)浄土宗の聖冏(しょうげい)に帰依し、その門下となりました。

 聖冏が体系化した五重相伝の布教に努め、多くの弟子を養成しました。

 明徳4年(1393年)武蔵国豊嶋郡貝塚(現在の東京都千代田区)にあった光明寺と称する真言宗寺院を浄土宗に改宗して増上寺と改称し、関東における浄土宗の道場としました。

 千葉氏・佐竹氏の帰依を得、寺領の寄進もあり増上寺の基礎を築きました。永享11年(1419年)、甥の酉仰(ゆうごう)に増上寺を譲りました。

 弟子に、弘経寺開山の嘆誉良肇(りょうちょう)、松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)などがいます。

 著書も多く、七十五才にて歿しました。


■ 日野 業子 義満の寵愛を受け日野家の権力を強化

 ひの なりこ
 正平6年/観応2年(1351年)- 応永12年7月11日(1405年8月5日)

 室町幕府3代将軍足利義満の御台所で、父は日野時光、兄弟に日野資康ほかがいます。位階は従一位、准后です。

 宮中に影響力を持っていた叔母の日野宣子(岡松一品)が仲介し、1375年に足利義満と結婚しました。

 義満が京都に花の御所を造営し、そこに移ります。

 業子は和歌に秀でていたことから、義満の寵愛を受けたといわれ、義満の計らいで従一位・准后となりました。

 2人の間に成長した子はなく、1405年に55歳で死去し、法名は定心院でした。

 業子と義満の婚礼により、持明院統の公家だった日野家は朝幕政界に影響力を強めることになります。



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■■【今日は何の日】ラジオ本放送の日 7月12日

■ 岳の幟(7月第二日曜日)

 「岳の幟(たけののぼり)」は長野県上田市にある別所温泉に伝わる500年近くも続く「雨乞いの神事」です。

 奇祭の一つとして知られますが、氏子男子が男神岳へ登り、九頭龍神社に祈念します。そして、青竹の先から五色の反物を垂らし、数十本が並んで下るものです。行列の前には、二頭の獅子と乙女たちのささら踊りの舞いが奉納されます。

 「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されています。


■ ラジオ本放送の日

 1925(大正14)年3月22日に、東京放送局(現在のNHK)がラジオの仮放送を開始し、7月12日に本放送に切り替えました。これを記念して「ラジオ本放送の日」が制定されました。

 2011年の7月24日にテレビのアナログ放送が終了し、本格的なデジタル放送の時代に移行しました。放送と通信の融合の時代といわれて久しくなりますが、技術の変化は大きいものがあります。

 その歴史や技術については、東京・愛宕山にある放送文化研究所内にあるNHK放送博物館で見ることができます。開館は、原則毎週月曜日が休館で、午前10時00分~午後4時00分です。(休館に注意)

 デジタル化することにより、電波を一層活用できるようになります。なぜデジタル化するのかの理由の一つが、電波帯域です。電波というのは無限に利用できると考えられがちですが、周波数が近いと混信するなどの問題から、電波も有限資源と考えられます。

 アナログ放送では電波利用周波数帯域が広く必要ですが、デジタルでは狭い帯域で済みます。デジタル化することで、高画質・高音質や付帯情報というメリットの他に、前述のような大きなメリットがあるのです。

■ 標準時間記念日(ひょうじゅんじかんきねんび)

 1886年(明治十九年)7月12日に、日本全国の時間を統一したことを記念する日として「標準時間記念日」が制定されました。

 太陽が真南に位置する時を正午とすると、北海道の東端と九州の西端では、1時間以上も誤差が出てしまいます。この時差をなくすために、兵庫県明石市を通る東経135度の時間を「日本標準時」と定めました。これによって、日出と日没に時間差はありますが、日常生活には支障がなくなりました。

 ちなみに東経135度の経線は「日本の子午線(しごせん)」とも呼ばれています。子午線(meridian)とは、地球の赤道に直角に交差するように両極を結ぶ大円のことです。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 福島伊佐須美田植祭
◇ 大阪生国魂神社夏祭


【経営コンサルタントの独り言】 おはずかしいことに「世界時」とは何か知りませんでした

 7月12日は「標準時間記念日」でした。

 世界の標準時は、ご存知の通り、イギリスグリニジ天文台を通る経度0度の子午線上での平均太陽時を使っています。

 これを「世界時」というのだそうです。

 グリニジ平均時 (Greenwich Mean Time)の簡略表記は「GMT」ですが、卒業後商社マンになったにもかかわらず、入社数か月の時点まで、この略語を知りませんでした。

 船舶などの出帆の日時を確認するときにGMTを使うことがあるのですが、それを知らず、日本時間を先方に伝えてしまいました。

 先方は、時刻の標準時に換算しなければならなかったわけです。


 経度0度の子午線は、グリニジ天文台に白線が引かれています。

 そこをまたいで写真を撮るのが観光客の習わしだそうです。

 東経と西経の両方をまたぐという意味なのでしょう。

 私もまたいでみました。

 世界を股に掛ける男になったのです。<笑い>




【きょうの人】

■ 重源 没

 ちょうげん
 保安2年(1121年)- 建永元年6月5日(1206年7月12日)


 俊乗房重源は、1121年(保安二年)に京都に生まれました。父は、柿本人麻呂とも血縁のある紀氏一族の紀季重です。

 13歳で醍醐寺に入って密教を学び、1167年(仁安2年)入宋(にっそう:中国宋を訪問)し、翌年帰国しました。

 1180年(治承4年)平重衡によって大仏殿が焼かれるなど、東大寺の多くの伽藍が焼失したが、翌年60歳を過ぎた彼が造東大寺の大勧進職に任ぜられ、10数年の歳月をかけて東大寺の再興を成し遂げました。再建に当って、大仏様(だいぶつよう)と呼ぶ宋風建築様式を取り入れ、再建の功により大和尚の号を受け、1206年(健永元年)86歳で入滅した。



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■■【今日は何の日】お盆の入り 7月13日


■ 海の日(7月第3月曜日)

 7月の第三月曜日は「海の日」という国民の祝日です。

 もともとは7月20日に制定されていましたが、2003年より、7月の第三月曜日に変更となりました。

「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」という趣旨の祝日です。

【Wikipedia】 海の日
 海の日は、1995年(平成7年)に制定され、1996年(平成8年)から施行された日本の国民の祝日の一つである。制定当初は7月20日だった。2003年(平成15年)の祝日法改正(ハッピーマンデー制度)により、7月の第3月曜日となった。
 国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条では、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としている。国土交通省の文書の記述などによると「世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」という。


■ お盆の入り

 今日は「盆の入り」、お盆が始まります。地方により風習は異なるのかも知れませんが、私のところでは、夕方におがらを炊いて祖先の精霊を迎えます。キュウリやなすで馬などの動物を作って供えます。

 おがらを焚く迎え火は、先祖の霊(精霊)を迎えるもので、「精霊会(しょうりょうえ)」といいます。玄関先や庭で焚く地方もあれば墓地や川端、海辺で焚く地方もあります。

■ 靖国神社「みたままつり」

 桜の名所として知られ、東京のさくら開花宣言の基準木がある神社です。日本の軍人や軍属などを主な祭神として祀られています。

 第二次大戦のA級戦犯が祀られていることから、政治家が参拝することに対して中国や韓国は神経質になっています。

 その靖国神社のお祭りのひとつが「みたままつり」なのです。7月13日~16日の4日間開催されます。

【公式サイトより】

 日本古来の盆行事に因み昭和22年に始まった「みたままつり」は、今日、東京の夏の風物詩として親しまれ、毎年30万人の参拝者で賑わいます。
 期間中、境内には大小3万を超える提灯や、各界名士の揮毫による懸雪洞が掲げられて九段の夜空を美しく彩り、本殿では毎夜、英霊をお慰めする祭儀が執り行われます。
 また、みこし振りや青森ねぶた、特別献華展、各種芸能などの奉納行事が繰り広げられるほか、光に包まれた参道で催される都内で一番早い盆踊りや、軒を連ねる夜店の光景は、昔懐かしい縁日の風情を今に伝えています。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 迎火
◇ 佐原祇園祭(~15日)
◇ 遠州大念佛


【経営コンサルタントの独り言】 お盆は地方により日が異なるのですね

 お盆は、「和暦の7月15日を中心に日本で行なわれる祖先の霊を祀る一連の行事(Wikipedia)」です。一般的には、仏教の行事と考えられますが、神道など他の宗教行事も混じり合っているそうです。

 因みにWikipediaによると、お盆は、下記のように地方により異なりっています。

 1.旧暦7月15日(旧盆) - 沖縄・奄美地方など
 2.新暦7月15日(もしくは前後の土日) - 東京・横浜など
 3.新暦8月15日(月遅れの盆。2.を主に祝う地方では旧盆とも)
 4.その他(8月1日など)

■ さすがプロと感じました

 日本経営士協会のセミナーが開催されました。

 セミナーは、「好業績の要因分析と今後の経営課題 ~株式会社ファーストリテイリング(ユニクロ)の実例を通して~」という演題で、経営士の徳永誠氏にご講演をいただきました。

 単に、ユニクロの強みを紹介するに留まるのかと思いきや、ユニクロの弱みにも言及し、さらにはユニクロの将来のあり方まで触れられました。それだけに留まらず、ユニクロの経営から中小企業が何を学び取るべきか、経営士・コンサルタントらしい発想で、中小企業の経営戦略のあり方のアドバイスまで踏み込みました。

 講演後の質問がまたレベルが高かったのは、さすが経営士・コンサルタントの団体の研究会だけあると思い知らされました。

 「講師の先ほどの○○についての分析ですが、そこは△△とすると××の視点で分析できるのではないでしょうか」というような講師の研究のレベルアップのための質問と言うよりアドバイスまで飛び出しました。

 単に相手をこき下ろすのではなく、建設的な意見が出るところは、士業の研究会にしては他にあまり類を見られない、この団体のすばらしさを見せつけられました。


【きょうの人】

■ 修円


 しゅえん
 宝亀2年(771年)-承和2年6月13日(835年7月16日)

 平安時代前期の法相宗の僧で、俗姓は小谷氏、大和国北谷の出身です。

生禅師(ていしょうぜんじ)とも称されます。

 義真から天台教学を学び、義真の没後は義真に代わって、大和国室生寺に住し、いわゆる「室生天台」を現出させた「円修」と混同されることが多いのですが、別人です。

 大和国興福寺の賢憬に法相を学び、794年(延暦13年)比叡山根本中堂の落慶供養の際その堂達をつとめました。805年(延暦24年)には最澄から灌頂(かんじょう:菩薩が仏になる儀式)を受けています。

 810年(弘仁元年)に律師、812年(弘仁3年)に興福寺別当となり、興福寺に伝法院を設けて深密会を始めました。827年(天長4年)には、少僧都(しょうそうず:僧正の下にあって、大僧都を助けて僧尼を統率する僧官)となりました。

 空海とも親しく、天台宗・真言宗という当時としては新しい仏教に理解を示していたようです。


■ カエサル,ガイウス・ユリウス

 Gaius Iulius Caesar
 紀元前100年7月13日? - 紀元前44年3月15日

 シーザーとも呼ばれることは周知の通りです。

 父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar) 、母はルキウス・アウレリウス・コッタの娘アウレリア・コッタで、祖先に幾人もの執政官を輩出した名家の出身でした。

 紀元前83年、カエサルは神祇官を務めますが、この職務はパトリキという特定の人達にのみに開放されていて、婚約者がいたにもかかわらず、パトリキのキンナの娘コルネリアと結婚しました。若い頃から、野心家だったのですね。

 属州の軍に籍を置き、そこでの業績で、属州の「市民冠」を授与されました。弁舌力を活かして、属州総督を次々と告発しました。ここのころから表舞台に出始め、カエサルは弁舌で一躍有名となりました。

 あるとき、アレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスの年齢に達したのにも拘らず何もなしえていない」と自らの心境を吐露し、偉業達成への意気込みを見せたそうです。

 紀元前60年になりますと、コンスルをめざしているカエサルは、オリエントを平定して凱旋した自分に対する元老院の対応に不満を持ったポンペイウスと手を結び執政官に当選します。

 執政官になりますと、グラックス兄弟以来元老院体制におけるタブーであった農地法を成立させます。

 ガリア戦争では武功を上げ、それをもとにカエサルはガリア戦争の一連の経緯を『ガリア戦記』として著しました。そのプレゼンスにより、ますますカエサルは、名を上げます。

 三頭政治を始めますが、その一人の死により三頭政治が崩壊しました。

 紀元前49年、カエサルは自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入します。この時に、ルビコン川を渡る際、あの有名な「賽は投げられた」と檄を飛ばしたといわれています。その結果、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にしたのです。

 エジプトでは、クレオパトラが弟プトレマイオス13世と争っており、両者の仲介を模索しましたが弟から攻撃を受けましたので、クレオパトラの側に立って政争に介入しました。

 エジプトが平定されますと、カエサルは親密になったクレオパトラとエジプトで過ごしましたが、その時に、政敵ポンペイウスの勢力下だった軍を破ります。この時に、ローマに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici.)」という名言が残されています。

 紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは、市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式の挙行にあたって、クレオパトラを息子カエサリオンとともに招きました。

 元老院派を武力で制圧して、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは共和政の改革に着手します。

 終身独裁官としての絶対的な権力に対し、マルクス・ユニウス・ブルトゥスやガイウス・カッシウス・ロンギヌスら共和主義者は共和政崩壊の危機感を抱き、新たな生成ができました。

 元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊で、マルクス・ブルトゥス等により暗殺され、その時の言葉が「ブルータス、お前もか」という言葉を発したと言われています。

 奢るもの、久しからず


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■■【今日は何の日】ペリー浦賀上陸 7月14日

■ ペリー浦賀上陸

 1853年7月14日(旧暦嘉永6年6月9日)、黒船が4隻浦賀沖に現れました。いわゆる黒船到来、ペリー提督が久里浜に上陸して将軍への親書を渡した。

 「太平のねむりをさます上喜撰たった四杯で夜も眠られず」と狂歌に謳われているほど、江戸の街は大混乱でした。ちなみに「上喜撰(じょうきせん)」は、静岡のお茶の銘柄です。「蒸気船」と表記しなかったのは、御上からのとがめを回避する苦肉之策であることは想像できます。

 幕府は、品川沖に砲台を6門設置しました。これが今日東京のメッカの一つである「お台場」です。私が子供の頃、遠足で行くほど、今とは様変わりでした。

 翌年「日米和親条約」が結ばれて日本の鎖国が終ったのです。

■ フランス建国記念日、パリ祭

 7月14日は、パリ祭で知られるフランス建国記念日でもあります。「オー、シャンゼリゼ」という歌は、フランス人なら当然のこと、私達日本人も知っている言葉です。

【Wikipedia】 パリ祭
パリ祭(ぱりさい)は、フランスで7月14日に設けられている国民の休日(Fête Nationale)。1789年同日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、この事件の一周年を記念して翌年1790年におこなわれた建国記念日(Fête de la Fédération)が起源となっている。

■ 那智の大祭(なちのひまつり)

 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町にある熊野那智大社で「那智の大祭」が催されます。13日は宵宮で14日が本宮です。

 日の丸の扇を飾った扇神興は全部で12基あり、他では見ることができません。那智大社から飛滝神社までの渡御で、途中の伏拝で一扇立ての神事が行われます。石段をのぼり、一扇御輿を大松明で迎え清めるという、荘厳な神事です。

 扇神輿渡御の前に舞が奉納されますが、これは国の重要民俗無形文化財となっている田楽です。他に大和舞や田植えの舞などもあります。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 橘寺勝そう(しょうそう)会
◇ 土岐常福寺施餓鬼会
◇ 天王祭

【経営コンサルタントの独り言】 「幟」何と読むのでしょう

 7月第二日曜日は「岳の幟」の日です。

「幟」は「のぼり」と読むのですね。

「識」とよく似ていますね。

「織り姫」の「織」とも似ていますし、意味も近いですね。

 いとへんの代わりに「方へん」で「し」という字もあるようです。

 木へんですと「くい」という字だそうですが、いずれもJIS漢字表にはないので、ここで表記できません。

 火へんですと「熾」となりますが、「熾烈(しれつ)」という熟語ですとわかりますね。

 似たような漢字は結構ありますね。

 孫息子が漢字博士で、いろいろと教えられることがあります。


【きょうの人】

■ 祐天上人(明蓮社顕誉)
 没

 ゆうてん
 寛永14年4月8日(1637年5月31日)- 享保3年7月15日(1718年8月11日)

 浄土宗大本山増上寺36世法主で、江戸時代を代表する呪術師、字は愚心、号は明蓮社顕誉です。

 徳川五代将軍綱吉の命により正実大厳寺に住み、飯沼広経寺や、東京小石川の伝通院を経て、増上寺に住し、三六世の法席を継ぎます。

 密教僧でなかったにもかかわらず、強力な怨霊に襲われていた者達を救済、その怨霊までも念仏の力で成仏させたという伝説があるほどです。

 祐天の除霊伝説は存命中に書かれた『死霊解脱物語聞集』など、大衆向けに書かれた出版物によって広まりました。

 その後、当時盛んだった説教節や、18世紀半ばになって書かれた『祐天大僧正御伝記』などの伝記の中で祐天の除霊譚は地蔵菩薩の化身として語られ、後々まで庶民の間で信じられてきました。

 八十二才で歿しています。




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■■【今日は何の日】お中日、盂蘭盆会 7月15日

■ お中日、盂蘭盆会

 7月15日は、「お中日」、「盂蘭盆会(うらぼんえ)です。

 「中元」というのは、正月15日を「上元」、7月15日を「中元」、10月15日を「下元」という道教の「三元」からきています。お盆と直接関連はないのですが、「盂蘭盆会」と日が重なります。

 因みに、お盆をすぎると中元の贈答はしません。先方に失礼のないようにしましょう。

 中元に関する例文は「中元 礼状 文例」をキーワードとすると適切なサイトが見つかるようです。


■ 磐梯山の大噴火

「会津磐梯山は、宝の山よ~」と謳われる磐梯山は、猪苗代湖とともにその名が知られています。

 1888(明治21)年7月15日に磐梯山が大噴火を起こしました。

 この時、小磐梯の山体崩壊がおこり、泥流がして、477名もの犠牲者が出ました。

 1,818.61mあった高さが、崩落と浸食により、2010年10月の計測で1,816.29mであることがわかりました。

「会津富士」とも呼ばれ、日本百名山のひとつとに選定されています。


■ 山形出羽三山花祭

 7月15日は「花祭」と呼ばれる出羽三山神社の例祭です。

 この頃は、稲の開花期にあたり、豊作を願い、災厄のないことを祈願する祭です。

 三山の神輿や稲の花に見立てた造花を飾った万燈などが、鏡池の周りを一巡します。こと時の花を手にすると神様のご加護がある言い伝えられ、その花を参拝者が奪い合います。

【Wikipedia】
 出羽三山(でわさんざん)は、山形県村山地方・庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称である。修験道を中心とした山岳信仰の場として現在も多くの修験者、参拝者を集めている。




■ 【今日は何の日】その他
◇ 多治見永明寺せがき
◇ 祐天上人寂



【経営コンサルタントの独り言】

■ お彼岸のお中日に説法を聴く

 本日は、お彼岸のお中日です。

 檀那寺(だんなでら:信徒が属す寺)である臨済宗建長寺派の某寺で説法を聴いてきました。

 京都府舞鶴市松尾にある西国第二十九番札所青葉山松尾寺(まつのおでら)の「人生往来手形」の話を聴いてきました。

 人間は、縁(えにし)あってこの世に生を受けた、「この世の間借り人」であるといいます。

 間借り人ですので、好き勝手に生きて良いわけではありません。

  三度の食べ物に文句をいわないで
  美味(おいしい)と誉め

  人と気まずいことがあっても
  我が身の至らぬせいと思い

  愚痴なく、
  怒らず
  むさぼらず

 そして、最後は「ほどよく、この世に暇乞いして、元のあの世に帰る」とのことでした。

 人間は、死ぬと気になって幸せな人生であったかどうかが解ると言われています。

 周囲の人に迷惑を掛けない、良い死に際でありたいものです。


■ お中元と盂蘭盆会、宗教というのは複雑ですね

 7月15日は、お盆の「お中日」です。この日は、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」でもあります。

 先祖を、偲びあう仏教の重要な行事です。【Wikipedia】によりますと「父母や祖霊を供養したり、亡き人を偲び仏法に遇う縁とする行事」とあります。

 この時期には「お中元」の贈答を行う人が多いでしょう。

 このお中元ですが、仏教の関連かと思いきや・・・


 7月13日に盆入りで、迎え火を焚いてご先祖様の霊をお迎えしましたが、7月16日は、そのご先祖様をお送りするために送り火が焚かれます。

 京都の大文字焼きは送り火のひとつとしての行事です。

 迎え火は、ご先祖の霊が、キチンと自分達のところに帰って来て下さるように、その目印として焚きます。

 送り火は、ご先祖様が帰ってきて下さったことへの感謝の気持ちを持ち、見送るということを表しています。

 送り火は、夕方に同じ場所で、焙烙にオガラを折って積み重ねて燃やします。

 お墓で迎えたり送ったりするのが正式といわれています。

 お迎えの時には提灯に明かりを灯して、霊を家まで導いて帰ります。

 近年は、マンションなどでは火をたけませんので、盆提灯を迎え火や送り火の代わりと見なせるそうです。


【きょうの人】

■ 黒田 清輝


 くろだ せいき
 1866年8月9日(慶応2年6月29日)- 1924年(大正13年)7月15日

 日本を代表する洋画家で、晩年は貴族院議員として活躍した政治家でもあります。従三位、勲二等を授与されている子爵です。

 通称は、新太郎(しんたろう)で、名の清輝は、本名は「きよてる」ですが、画名は「せいき」と読みます。

 東京美術学校教授や帝国美術院院長も務めています。

 日本に、洋画を普及させた功績は大きく、『湖畔』(1897年)は、黒田の代表作中の代表作品です。『裸体婦人像』(1901年)では、「腰巻事件」を起こす契機となった作品です。その延長線上の作品として『智・感・情(1899年)』という連作があります。これは東京国立博物館黒田記念館の所蔵で、重要文化財として認定されています。

 日本画主流の世界に、洋画を紹介するということは、流れとは異なる状況に、さおを差すことになります。その反動は大きかったのではないでしょうか。

 先駆者として、ビジネスの世界で何かことを始めることはむつかしいことです。それができる人が、いてこそ、生活が便利になったり、大きな会社に成長したりという変化も得られるのですね。



■ 国木田 独歩

 くにきだ どっぽ
 1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)

 日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者で、千葉県銚子に生まれ、広島県や山口県で幼少期を過ごしました。

 幼名を亀吉、後に哲夫と改名し、筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがあります。

 田山花袋、柳田國男らと知り合い「独歩吟」を発表しました。詩や小説を書いている中で、次第に小説に専心するようになります。

「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」といった浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる作家です。

 現在も発刊されています雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されています。

 夏目漱石は、その短編「巡査」を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していました。

 私は、東京の郊外で育ちましたが、独歩の代表作「武蔵野」には、そのころの風景が、この小説の中で描かれているのを実感します。



■■駅弁の始まり 【今日は何の日】 7月16日

■ 立正安国論

 日蓮が文応元年(1260年)7月16日に北条時頼に提出した文書が立正安国論です。

 日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあると主張しました。

 対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱えました。逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張した書物です。(【Wikipedia】を参照作成)


■ 駅弁の日

 駅弁ファンは結構たくさんいるようで、テレビ番組でも駅弁が小道具にしばしば使われます。小林稔侍さんのテレビ番組でも、渋い役をこなす道具として不可欠ですね。

 さて、駅弁は、1885年7月16日に宇都宮駅が開業しました。旅館の主人が、おにぎりとたくあんを笹に包んだものが日本最初の駅弁だそうです。これを記念したのが「駅弁記念日」です。

 昨今では、駅弁の種類も増え、旅の楽しみも増えました。ところが、私が子供の頃というのは、幕の内弁当暗いしか選択の余地がありませんでした。日常の食事と大差なく、駅弁に<クリック>なり興味はありませんでした。それでも、駅に着きますと、肩から盆箱にうずたかく積んだ駅弁売りや「おせんにあんパン、キャラメルに羊羹・・・」と元気な声で売りに来る姿は、今でも強い印象として残っています。

■ 盆送り火

 7月13日に盆入りで、迎え火を焚いてご先祖様の霊をお迎えしましたが、7月16日は、そのご先祖様をお送りするために送り火が焚かれます。

 京都の大文字焼きは送り火のひとつとしての行事です。

 迎え火は、ご先祖の霊が、キチンと自分達のところに帰って来て下さるように、その目印として焚きます。

 送り火は、ご先祖様が帰ってきて下さったことへの感謝の気持ちを持ち、見送るということを表しています。

 送り火は、夕方に同じ場所で、焙烙にオガラを折って積み重ねて燃やします。

 お墓で迎えたり送ったりするのが正式といわれています。

 お迎えの時には提灯に明かりを灯して、霊を家まで導いて帰ります。

 近年は、マンションなどでは火をたけませんので、盆提灯を迎え火や送り火の代わりと見なせるそうです。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 藪入り
◇ 国土交通デー
◇ 閻魔詣
◇ 塩竃みなと祭
◇ 杉並眞盛寺施餓鬼会
◇ 茅ヶ崎寒川神社浜降祭
◇ 沼津蓮光寺施餓鬼会

【経営コンサルタントの独り言】

■ 鉄ちゃんには駅弁ファンが多いようです

「鉄ちゃん」は鉄道マニア、その鉄ちゃんでも「乗り鉄」とか「撮り鉄」とか、さらに分類される早朝ウォーキングです。


 私は、下手の横好きで、下手な写真をとり続けてきました。

 近年は、旅行先で、行った先の紹介をするようにしています。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/indexmeisho.htm

 ところが、アップロードは愚か、整理すらままならない昨今です。


 旅の醍醐味は、その土地の食べ物を楽しむことにある言われます。

 私の叔父の一人で経営コンサルタントをしていた人がいました。

 十年以上前に他界してしまいましたが、仕事先で時間を作っては旅行をしていました。

 彼の楽しみは、まさに土地の食べ物と駅弁だったのです。

 駅弁のラベルを集めたり、駅弁の写真を丁寧に整理していました。まさに駅弁の百科事典とも言える几帳面さでの整理がなされていました。


(ドアノブ)

【きょうの人】

■ 役行者


 えんのぎょうじゃ

 役行者、別名「役小角(えん の おづぬ /おづの /おつの)
 舒明天皇6年(634年)伝 -  大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)

 飛鳥時代の呪術者で、役優婆塞(えんのうばそく)、役小角(えん の おづぬ / おづの / おつの)という呼び名でも広く知られています。

 姓は君、修験道の開祖とされています。

 実在の人物ですが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きく、真の姿が見えない部分があります。

 天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など、多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承があります。


役行者神変大菩薩(奈良・金峯山寺)

 日本の正史『続日本紀』によると役行者は634年(舒明天皇6年)、御所市茅原で誕生しました。名は小角といい、幼少の頃より葛城山で修行するなど山林修行や苦行の末、金峯山上にて金剛蔵王大権現を感得され、修験道の基礎を開かれたと伝えられています。

 やがて修行の高まりと共に、強固な精神力と、煩悩を克服した境地に達し、呪術家としての名声は天下に鳴り響りました。

 699年(文武天皇3年)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の謗言によって伊豆大島に流罪になり、701年(大宝元年)無罪がわかり、許されて都に戻られました。

 同年6月7日68歳で、箕面の天上ヶ岳にて入寂されたと伝えられていますが、異説も多く、「昇天した」「母を鉄鉢にのせて海を渡って入唐した」などと多くの伝説が残されています。

 その尊像の多くは、折伏した2匹の鬼(前鬼・後鬼)を従えた仙人風の姿で祀られています。

 1100年忌にあたる1799年(寛政11年)に光格天皇より、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)が贈られました。






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■■【今日は何の日】漫画の日 7月17日


■ 国際司法の日(World Day for International Justice)

 1998年7月17日に、国連全権外交使節会議において「国際刑事裁判所ローマ規程」が採択されました。

 国際的な司法問題とは言うのややっかいな物です。それを解決すべき裁判所を常設国際司法裁判所です。

 1922年に設立された国際連盟における国際司法機関で、国際社会に初めて登場した本格的な常設の司法裁判所です。

 オランダのハーグにある平和宮に本部を置いていました。

 1940年、ナチス・ドイツがオランダに侵攻したのを機に活動を停止し、1946年4月に国際連盟とともに消滅しました。

 それを引き継いだのが、国際連合のもとに設立された国際司法裁判所です。

 国際司法裁判所( International Court of Justice: ICJ)は、6つある国際連合の主要機関のひとつです。

 自治的な地位を持つ常設の国際司法機関で、オランダのハーグに本部を置いています。

 国家間の法律的紛争について裁判をしたり、国連総会や国連安保理などの要請に応じて勧告的意見を与えたりします。

 この機能から、「世界法廷(World Court)」とも呼ばれます。

 国際法一般を扱う常設司法裁判所という点において、常設仲裁裁判所、国際海洋法裁判所、国際刑事裁判所(ICC、2003年3月発足)などとは区別され、別々の組織です。

 日本が抱える国境問題など、国際司法裁判所は、それほど解決能力がないのではないかと不満を持つ人も多いでしょう。



■ 漫画の日

 7月17日は「漫画の日」です。1841年7月17日にイギリスの週刊誌『パンチ』が発刊されました。絵入り諷刺漫画で人気でしたが、1992年に廃刊になってしまいました。廃刊になってしまったことは残念ですが、151年間発行され続けたということはすばらしいことです。

 継続は力なりと申しますように、私どももメルマガやブログを発行し続けて来ています。
 経営者・管理職や経営コンサルタント業を主体としている内容のためか、なかなか読者数は増えませんが、わずかでも増えてきているということは有り難いとことです。

 私が子供の頃というのは、昨今のようにテレビもなければ、ゲームもありません。休日は、校庭に行くと近所のお兄さん達が野球をしているので、仲間に入れてほしいと思いながらも、こちらがちびのため、相手にしてくれません。

 お世辞を使うために、球拾いをしたり、道具の整理をしたりと健気にやっていました。小学校も中学年になると、人数が集まらないときだけですが、ライパチ君(守備はライト、打順は8番)をやらせてもらえるようになりました。

 平日は、路地で近所の子供が集まれば、缶蹴りなどの遊びをする程度です。仲間が集まらないと、向かいの家に上がり込んで漫画の本を読みました。それも一度読んだ漫画を何度も読んでいました。あたかも自分の家のように振る舞えたのが懐かしいです。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 横浜宝林寺せがき
◇ 京都八坂神社祇園祭
◇ 貞安寂

【経営コンサルタントの独り言】

■ コミック誌は1840年代から続いてきた

 7月17日は「漫画の日」でした。

 コミック誌の歴史は長いことに驚きます。

 手塚治虫の「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」は、初期の頃の作品とは思えない完成度の高いものです。

 東京山手線高田馬場駅近くのトキワ荘を拠点に藤子不二雄や石ノ森章太郎、赤塚不二夫など、錚々たるメンバーが影響を受け、今日に至っています。

 手塚治虫が、医学博士であることもよく知られています。

 アトムやお茶の水博士の描写にそれが滲み出ていると言えます。

 成功している人というのは、ひとつの道に秀でるだけではなく、それを引き立てる別の能力や知識、経験が背景にあることが多いです。

 私は、若手経営コンサルタントに「マルチライセンス」ということをお薦めしています。

 日本経営士協会のメールマガジンのヘッダーは20年余「マルチライセンス」を謳っています。


【きょうの人】

■ 山川健次郎 生誕


 やまかわ けんじろう
 1854年9月9日(嘉永7年閏7月17日)- 1931年(昭和6年)6月26日

 明治時代から昭和初期にかけての日本の物理学者であり、教育者でもあります。男爵の爵位を持っていました。

 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。

 会津藩出身で、白虎隊の兵士として明治政府と戦った勇者でもあります。国費で米国留学をして、東京帝国大学(東京大学の前身)に登用されました。東京帝国大学総長や九州帝国大学(九州大学の前身)の初代総長など、多数の大学等で共育に携わってきました。

 少年期に、白虎隊に入隊していたの時の経験を元に著した、戊辰戦争を会津藩側の立場から見た『会津戊辰戦史』はM死後の昭和7年(1932年)に出版されました。この本は旧幕府軍側を「東軍」新政府軍側を「西軍」と書いた初めての本です。

 会津藩に対する忠誠心は、壮年期以降は「愛国心」に転じ、日露戦争の時にはすでに東大総長であったにも関わらず陸軍に「一兵卒として従軍させろ」と押し掛けたという逸話もあります。

「はじめてカレーライスを食べた日本人」と諸本で紹介されていますが、定かではありません。しかし、明治4年(1871年)に、国費留学生としてアメリカに向かう船中で、カレーライスを食べたという記述が回想録に書き残されています。しかし、カレーライスを選んだのは、それが唯一米を使った料理でしたからで、カレーはすべて残したといわれています。




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■■【今日は何の日】なでしこジャパン 7月18日

■ なでしこジャパン

 2010年7月18日、なでしこジャパンがワールドカップで優勝しました。

 日本女子サッカーというのは、永年日の目を見ないできましたが、一挙に開花しました。

 サッカーの魅力が上がっただけではなく、女性に対する期待が膨らみました。

 「大和なでしこ」というと控えめなイメージでしたが、日本女性のイメージ一新、スポーツ界だけではなく、色々な面で女性の強みを発揮してほしいと思います。

■ 光化学スモッグの日

 1970年7月18日のことです。体育の授業中、生徒が突然頭痛や目の痛みなどを訴えて倒れてしまうという事件が起きました。

 原因は、光化学スモッグということがわかりました。

 東京都杉並区の立正高校で出来事で、東京都公害研究所は、窒素酸化物(NOx)が紫外線により有毒物質に変化して起こったということが解り、光化学スモッグに対する関心が一挙に高まりました。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 増上寺開山(聖聡上人)忌

【経営コンサルタントの独り言】

■ 大気汚染や異常気象をなくしたい

 近年「光化学スモッグ」という言葉が、あまり聞かれなくなりましたが、日本における大気汚染に対する意識の高まりの契機となった言葉です。

 神奈川県川崎市の大気汚染は、2010年代の中国にも負けない程のひどさでした。

 光化学スモッグに対する契機となったのは、体育の授業中に起こりました。(詳細はブログで)


 豪雨による洪水が頻発する昨今です。

 山陰地方に始まった集中豪雨が北九州に移り、大きな被害を引き起こしました。

 その原因が、地球温暖化にあることは、科学的にキチンと証明できなくても、種々の裏付けからもわかります。

 2018年にアメリカ・トランプ大統領は、パリ協定から脱退するなど、あまりにも自国中心的な考え方として、多くの人の顰蹙を買い失望させました。

 アメリカ一極覇権の時代が終わったと言えます。


■ 聖聡 没

 しょうそう
 正平21年/貞治5年7月10日(1366年8月16日)- 永享12年7月18日(1440年8月15日)

 南北朝時代から室町時代中期にかけての浄土宗の僧で、増上寺の基礎を築き、開山しました。父は、下総国守護千葉氏胤、浄土宗第8祖。母は新田義貞の妻と伝えられています。

 はじめ千葉妙見寺(真言宗寺院で明治初年の廃仏毀釈により千葉神社となる)で、真言密教を学びました。

 元中2年/至徳2年(1385年)浄土宗の聖冏(しょうげい)に帰依し、その門下となりました。

 聖冏が体系化した五重相伝の布教に努め、多くの弟子を養成しました。

 明徳4年(1393年)武蔵国豊嶋郡貝塚(現在の東京都千代田区)にあった光明寺と称する真言宗寺院を浄土宗に改宗して増上寺と改称し、関東における浄土宗の道場としました。

 千葉氏・佐竹氏の帰依を得、寺領の寄進もあり増上寺の基礎を築きました。永享11年(1419年)、甥の酉仰(ゆうごう)に増上寺を譲りました。

 弟子に、弘経寺開山の嘆誉良肇(りょうちょう)、松平氏宗家第四代松平親忠開基の大恩寺開山了暁(りょうぎょう)慶善、松平氏宗家第三代松平信光開基の信光明寺開山釋誉存冏(そんげい)などがいます。

 著書も多く、七十五才にて歿しました。



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■■【今日は何の日】夏土用入 7月19日

■ 夏土用入

土用というとウナギを連想する人が多いと思いますが、それは夏土用と言われます。立秋前の18日間を「夏土用」といい、その初日が「夏土用入」です。

【Wikipedia】
土用(どよう)とは、五行に由来する雑節である。1年のうち不連続な4つの期間で、四立(立夏立秋立冬立春)の直前約18日間ずつである。
俗には、の土用(立秋直前)を指すことが多く、夏の土用の丑の日にはを食べる習慣がある。
各土用の最初の日を土用の入り(どようのいり)と呼ぶ。最後の日は節分である

■ 女性大臣の日

 1960年7月19日に、池田勇人内閣が発足しました。このときに、厚生大臣として中山マサ氏が日本で最初の女性大臣として就任しました。ただし、在任期間は5ヵ月と短かったのです。衆議院議員の中山太郎氏のお母さんでもあります。

 これを記念して7月19日を「女性大臣の日」として制定されました。

 Wikipediaによると、長崎県長崎市生まれ。米国オハイオ州のウエスリアン大学を卒業。帰国後は活水女子英語専門学校、長崎市立高等女学校の教師を務める。

 日本では、女性議員の比率が先進国中最も低いと言われています。ましてや女性大臣となると数えるほどです。

 クォータ制と言って、一定の割合で女性を割り当てなければならないという制度を欧米諸国の中には義務づけているところもあります。有名なところでは、フランスがあります。国会議員の数を男女同数と決めています。(Wikipedia)

 日本でも、思い切ったことをやり、女性進出が盛んになると、今までとは異なった視点の政治がなされるかも知れませんね。

■ 浜降祭(はまおりさい)

 神奈川県高座郡寒川町の寒川神社や茅ケ崎市の鶴嶺八幡宮など、近年では近隣の神社で開催される関東三大奇祭の一つといわれています。

 40基以上の御輿が、茅ヶ崎海外に集結し、褌姿の勇壮な担ぎ手により、神輿が海に担ぎ込まれます。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 土用
◇ 長母寺洗足
◇ 西瑞江大雲寺施餓鬼

【経営コンサルタントの独り言】

■ 「土用」は、年に何回あるかご存知ですか?

「土用」というとウナギを連想する人が多いと思います。

 ところが、ウナギと関係のない「土用」があるのですね。

 それも土用は、一年の内に何度かあります。


 近年、「土用」と「土曜」の発音の区別ができない人が多いですね。

  土用  _ _ /
      ど よ う
  土曜  _ / \

 天気予報士が、ときどき「熱い雲」と言っています。

 予報士だけではなく、アナウンサーですら「厚い」と「熱い」の発音を正しく区別できない人が多いですね。

 アナウンサーは、言葉のプロですので、標準語で話して欲しいです。

 偉そうなことを申し上げて失礼しました。 m(_ _)m



【きょうの人】

■ 源 頼光
 清和源氏の始まり

 みなもと の よりみつ
 天暦2年(948年)-治安元年7月19日(1021年8月29日)

 平安時代中期の武将で、父は鎮守府将軍・源満仲、母は嵯峨源氏の近江守・源俊の娘です。諱は、しばしば「らいこう」とも読まれます。

 満仲の長子で清和源氏の3代目で、満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれます。

 異母弟に大和源氏の源頼親や、後に武家源氏の主流となる河内源氏の源頼信がいます。

『日本紀略』によれば、永延2年(988年)9月には関白の藤原兼家が新邸を造営した宴において馬30頭を贈っています。

 正暦元年(990年)、関白・兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったと伝えられています。

 道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に後の清和源氏の興隆の礎を築きます。

 中世文学のなかで坂上田村麻呂・藤原利仁・藤原保昌とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されています。

 後世に成立した『今昔物語集』や室町時代になって成立した『御伽草子』などで丹波国大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治の説話でも知られています。

 歌人として『拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に計3首の和歌が入集しています。



■■
■■スペースシャトルとたくましい商魂 【今日は何の日】 7月20日


■ 中小企業の日


 日本企業総数の99%が中小企業・小規模事業者です。その中には、高度な技術を持っていたり、特別な商品・サービスで日本だけではなくグローバルな市場で認知されたりしています。
 ところが、大企業だけが目立ち、中小企業・小規模事業者は陰に隠れてしまっています。その存在意義や魅力等に関する正しい理解を広く醸成する機会を国民運動として、「中小企業の日」が中小企業庁により定められました。
 中小企業・小規模事業者の存在を広く知らしめるために、定められた期間において、官民で集中的に中小企業・小規模事業者に関連するイベント等を開催する取り組みも行われます。

 中小企業基本法の公布・施行日である7月20日を「中小企業の日」、7月の1ヶ月間を「中小企業魅力発信月間」としています。
 関係省庁(中小企業庁、総務省、厚生労働省、農林水産省、国土交通省)や、関係団体(日本商工会議所、全国商工会連合会、全国中小企業団体中央会、全国商店街振興組合連合会、中小企業家同友会全国協議会)が一体となって、地域の中小企業・小規模事業者に関わるイベント(シンポジウム、セミナー、商工祭等)を開催します。
 その内容は毎年異なりますが、中小企業の魅力を動画で発信したり、激変する時代を乗り越える中小企業の姿を紹介したりと種々の方法で行われます。

 中小企業の経営を支えようと中小企業診断士や経営士・コンサルタントの先生達が協力しています。日本で最初に設立されたコンサルタント団体である日本経営士協会は、日本のコンサルタント業の歴史そのもので、地道な活動をしています。
 ぜひ、中小企業の日を機会に、それらの先生方の活動にも目を向けてくださるとよろしいのではないでしょうか。
https://www.jmca.or.jp/



■ アポロ11号月面着陸

 1969年7月20日は、人類で初めて月面に降り立ちました。ルイ・アームストロング氏が、アポロ11号に乗って、「静かの海」に着陸しました。

 「この一歩は小さいが、人類にとっては大きな飛躍である」という言葉は有名ですが、この時に同時通訳をされたのが西山千氏でした。当時同時通訳ができる人は少なかったのですが、衛星中継された聞き取りにくい英語を、西山流でわれわれにわかりやすく伝えてくれました。

 われわれの年代で英語をしゃべれる人は、西山氏の「日本語」の表現力やその豊かさを記憶されていると思います。

 2011年に最後のスペースシャトルが飛び立ち、ロシアのソユーズがその代役として控えています。

 今後アメリカは、人を送るときにはソユーズに託されますが、その費用は従来の費用より50%以上も値上げされたそうです。足下を見たロシアの商魂のたくましさを見せつけられました。

 まだ人を宇宙ステーションまで届けるまでには至っていませんが、2011年のコウノトリで日本の宇宙技術の高さが立証されていました。日本にもビジネスチャンスが訪れるのでしょうか?

■ 恐山大祭(おそれざんたいさい)

 青森県むつ市の恐山菩提寺で11月20日?24日まで、下北半島の恐山で「恐山大祭」と呼ばれる地蔵講が行われます。

 恐山には、死霊が常住すると信じられており、祖先の霊を供養します。

 「イタコの□寄せ(霊媒)」で、祖先の霊と話すことができるといわれています。

 因みに、日本三大霊場というのは、恐山、比叡山、高野山のことです。多くは山岳信仰に基づきますが、東京都稲城市にある弁天洞窟のように地下霊場もあり、四国の志度寺のように海岸に位置するものもあります。

  恐山写真集 https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/98edf68e24aa92c3b533deef6b704d1b

【Wikipedia】 霊場
霊場(れいじょう)とは神仏の霊験あらたかな場所の意で、神社・仏閣などの宗教施設、ゆかりの地など、神聖視される場所をいう。古くから信仰の対象になっており、現在でもお遍路さんや修験者などの往来の多いところがある。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 山口祇園祭(~27日)
◇ 小倉祇園太鼓(~22日)
◇ 文覚上人忌

【経営コンサルタントの独り言】

■ 果てしなく広がる宇宙の果ては

 1969年7月20日に、人類は初めて月に人を送りました。

 果てしなく広がる宇宙の果ては、どうなっているのでしょうか?

 ビッグバンを引き起こした宇宙は、現在も広がっているといいますから、それを超えるとビッグバンの外に出ることになります。

 ビッグバンが起こる前は、カオス状態といいますので、そこはカオスといえます。

 そのカオスは無限に続き、広がりを持っているといいますが、「無限」とは???


 人類が光速をはるかに越えて移動できるようにならない限り、宇宙の果てまでは移動できないことになります。

 スタートレックでは、しばしば登場する瞬間移動やワープというのは可能となるのでしょうか?

 私には、ドラえもんの「どこでもドア」の方が理解しやすいです。



【きょうの人】

■ 上杉 鷹山 海外でも知られる日本を代表する名君

 うえすぎ ようざん 上杉 治憲(うえすぎ はるのり)
 寛延4年7月20日(1751年9月9日)- 文政5年3月11日(1822年4月2日)


 江戸時代中期の大名で、出羽国(山形県)米沢藩9代藩主でした。上杉謙信という名門の家柄でしたが、領地返上寸前の財政難に陥っていました。その米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。諱は初め勝興、後に治憲となりますが、藩主隠居後の号である鷹山の方が著名です。

 宝暦13年(1763年)より尾張国出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎました。

 10代将軍徳川家治より「治憲」の名を賜り、明和4年(1767年)に家督を継ぎました。

 家督を継いだとき、上杉家は、18世紀中頃には借財が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に累積していました。

 初代藩主景勝は、越後で120万石時代に従えていた家臣団6千人をそのまま、石高が15万石で召しかかえました。このため他藩とは比較にならないほど人口に占める家臣の割合が高かったことから、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与えていたのでした。

 加えて農村の疲弊や、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃したのです。

 名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改められなかった前藩主・重定は、藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどであったと伝えられています。

 藩主に就任した鷹山(治憲)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用しました。当然のことながら、先代任命の家老らと厳しく対立することになりました。

 江戸での仕切料(生活費)を8分の1に減額、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行ったりしました。

 天明の大飢饉では、東北地方を中心に餓死者が多発しましたが、鷹山(治憲)は、非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励などの対策に努めました。自らも粗衣粗食でした。

 曾祖父による学問所を藩校・興譲館として、細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせました。

 日本を代表する君主であるだけではなく、ジョン・F・ケネディ大統領の尊敬をうるほど、海外でもその名君ぶりは知られています。


  
【カシャリ! ひとり旅】 上杉神社
   
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/yamagata/yamagata-yonezawa/yamagata-yonezawa12.htm


■ 岩倉具視忌


 いわくら ともみ
 文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)

 NHK大河ドラマ「西郷どん」で一躍名前を挙げた一人が、岩倉具視です。下級公家でありながら、世渡りの上手さで、明治政府の海外派遣団の団長となったり、五百円紙幣に登場したりする程までに出世をしました。

 安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦の日米修好通商条約が、多くの公卿・公家から批判をされました。「八十八卿列参事件」といわれるこの事件では、岩倉が始めて政治の舞台に躍り出て、孝明天皇を始め、多くからその存在が認められることになりました。

 また、「安政の大獄」では幕府寄りの姿勢から京都所司代・酒井忠義に認められました。

 徳川家茂への和宮の降嫁の件では、「和宮御降嫁に関する上申書」を孝明天皇にさしだすなどで、その功績が認められています。


 京都洛北に、岩倉具視が幽棲していた旧居があります。

  国指定史跡 岩倉具視幽棲旧宅
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto-iwakuratomomitaku.htm
  京都 洛北  岩倉実相院門跡
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto-iwakurajissouin.htm


■ アレキサンドロス大王(3世)

 紀元前356年7月20日 - 紀元前323年6月10日

 通称アレクサンドロス大王といいますと、三省のことです。

 3世は、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニア王国のバシレウス(在位:紀元前336年 - 紀元前323年)のことです。

 「アレキサンドロスの大遠征」といわれ、強大な軍事力を下に、広大な地域を制覇しました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主でありましたり、エジプトのファラオも兼ねたりもしました。

 ヘーラクレースとアキレウスを祖に持つとされ、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれました。

 ギリシア語ではアレクサンドロス大王ですが、英語風に読みますとアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王となります。

■ 尾形光琳 紅白梅図他の国宝で知られる江戸時代の画家
 おがた こうりん
 万治元年〈1658年〉-享保元年6月2日〈1716年7月20日〉
 本名は尾形 惟富(おがた これとみ)。通称は市之丞。

 尾形光琳は、江戸時代中期の画家、工芸家で、琳派の創始者とされる人物です。
 京都の呉服商の次男として生まれ、王朝文化に親しみながら、明るく華やかな色彩と独創的な意匠で多くの作品を残しました。光琳の作品は「光琳模様」と呼ばれるほど、日本の美意識に大きな影響を与えました。
 光琳は屏風や小袖、蒔絵など様々な媒体に絵を描きましたが、紅白梅図、燕子花図屏風は国宝に指定されている名作です。光琳は30歳代前半に光琳と改名し、44歳で法橋の位を得ています。代表作の『燕子花図』は法橋位受領以前の作品のようです。
 光琳の作品には、制作年代のはっきりわかる作品は少なく、画風や、画面に捺されている印章などから制作年が推定されています。
 光琳と並び称される俵屋宗達は、生没年未詳の人物で、直接的な師弟関係はないのですが、『風神雷神図』『槙楓図』のように宗達の原画を題材にした作品もあります。このことから、光琳が宗達に学ぶ意識のあったと推定されます。
 江戸下向時代には、雪村の絵に感銘を受けたようで、雪村の絵を模写したものが数点残っています。

 尾形光琳の作品は、明るく華やかな色彩と独創的な意匠が多く、日本の美意識に大きな影響を与えたといえます。
 菖蒲図屏風の制作に見られるように、生家の染色業での型紙を、利用するなど、その手法の工夫は日本の伝統からの変化も見られます。



■■
■■【今日は何の日】日本三景の日 7月21日

■ 日本三景の日

 1957年7月21日に「自然公園法」が制定され、それに直接関連するわけではないのですが日本三景観光連絡協議会が「日本三景の日」を制定しました。

 「日本国事跡考」の著者である林鵞峰が、松島、天橋立と安芸宮島を絶賛したことに由来し、1618(元和4)の彼の誕生日であるこの日を日本三景の日とし増した。

 因みに自然公園法の第一条にある、この法律の目的は下記のようになっています。

 この法律は、優れた自然の風景地を保護するとともに、その利用の増進を図ることにより、国民の保健、休養及び教化に資するとともに、生物の多様性の確保に寄与することを目的とする。

  詳細 ←クリック

■ 陶器まつり

 今の時期、大阪の陶器神社(坐摩神社内)で「陶器まつり」が開催されます。

 その日には、全国から陶器業者が集まり、その信仰から「火防の神」としても知られています。

 期間中、神社所有の陶器の名品が公開されたり、火除けのために土鈴瓢箪が授けられたりします。

 陶器まつりは浪花の名物で、境内だけではなく、街の数ヶ所に陶器で作られた精巧な人形が飾られますし、瀬戸物市も開かれます。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 勤労少年の日
◇ 永源寺一切経ノ虫干大法要


【経営コンサルタントの独り言】

■ 学生時代の貧乏旅行 日本三景の想ひで

 松島を初めて訪れたのは大学生の時でした。初めて買ったマイカーは軽自動車でしたが、快適で、東北一周をしました。その時に立ち寄った多賀城市で、初めて竹の花が咲いているのを見つけました。竹に花が咲くということを知りませんでしたが、地元の人に言わせると60年に一回くらい咲くのだそうです。

 松島は、爾後、何度か訪れていますが、海外からのお客様には大変喜ばれます。瑞巌寺とセットでお連れすることが多かったです。

 天橋立は、またのぞきが有名です。長い砂州に松が並んで美しいですね。初めての出会いは、記念切手でした。ここも学生時代にマイカーで行きました。糸魚川から金沢、山陰、九州一周と回りました。帰りは、山陽道から東海道を通っての長旅でした。

 安芸の宮島は、その時に訪れたのが初めてです。学生の貧乏旅行でしたので、広島側で、港の売店のおばちゃんに自動車の駐車許可を得たら、一晩無料でおかせてくれました。宮島に船で渡ったときに、写真で見知っている宮島の大鳥居、拝殿などの朱の赤さが目に焼き付きました。その後何度が訪れていますが、最初の印象ほどには感動しなくなってしまいましたネ。

 今のように道が整備されているわけではありませんし、ましてや高速道路などのない時代に、一人で車の中に寝たり、ユースホステルを利用したり、時々やすい旅館に泊まったりと若さ故にできることを体験してきました。


■ 大阪に陶器神社と呼ばれる陶器のための神社があります

 大阪に陶器神社があり7月(年により異なる)には陶器祭が開催されます。

 7月21日に近い週末3日間に開催されます。


 陶器神社は京都にもあり、他所にもあるやにお聞きしています。

 陶器と言いますと、岐阜県の美濃焼が有名です。

「瀬戸物」と一般名詞になっている陶器ですが、岐阜県瀬戸市のことです。

 岐阜県は、日本における陶磁器生産シェアの50%以上を占めています。

 私が住んでいる関東では、なんと言いましても茨城県の笠間焼と栃木県の益子焼が有名です。

 その陶器市には、バスツアーも出る程です。


 大阪の陶器神社は正式には「坐摩神社」と言われます。

  http://www.ikasuri.or.jp/

「坐摩」は「いかすり」と読むことは、関西人にとってはあたり前のことでしょうが、お恥ずかしながら私は存じませんでした。

 坐摩神社の創祀は古く、神功皇后が新羅より帰還したときに奉祀したのが始まりとされています。

 お祭りには、全国から陶器業者が集まり、その信仰から「火防の神」としても知られています。

 火除けの土鈴瓢箪は有名ですので、坐摩神社の名前は存じなくてもこちらは知っています。


【きょうの人】

■ 覚鑁 (興教大師)


 かくばん/こうぎょうだいし
 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)- 康治2年12月12日(1144年1月18日)

 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。

 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。

 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。

 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。

 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。

 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。



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■■【今日は何の日】著作権制度の日 7月22日

■ 大暑(年により日付が異なる)

 今日は「大暑(たいしよ)」です。二十四節気の一つで「小暑」と「立秋」の間に来ます。

 大暑は、一番暑い酷暑の頃を意味します。大暑の終わりまでが夏とみなされ、暦の上ではそろそろ夏の終わりを告げる時期でもあります。

 現実には、最も暑い時期です。雑節のひとつである「土用」が明けるのは立秋の前日で、土用の期間はほぼ大暑と重なっています。


【Wikipedia】 七十二候
 七十二候(しちじゅうにこう)とは、古代中国で考案された季節を表す方式のひとつ。二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた期間のこと。
 各七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。中には、「野鶏入水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている。


■ うちわ祭 祇園祭は京都だけではない

埼玉県熊谷市で、毎年7月19日~23日の、全日程5日間にわたり、執り行われる祇園祭です。

 祭中に各店が赤飯を炊いて疫病除けを祈願し、その赤飯を買い物客に振る舞いました。

 後に赤飯の代わりに「うちわ」を出し、評判となったため「熊谷うちわ祭」と呼ばれるようになりました。

『関東一の祇園』と称されるうちわ祭は、全十二ヶ町の三輪の山車7台、屋台5台の上で笛や太鼓、鉦で賑やかにお囃子を響かせながら市内全域を練り歩きます。

 日本一暑い熊谷で、1年で1番暑いこの時期に熊谷人の熱い思いを祭り囃子に載せているそうです。


■ 著作権制度の日

 1899(明治32)年7月22日に「著作権法」が制定され、著作権制度が創設されました。

 それ以前は書籍についてのみ著作権が守られていましたがこの法律により全ての著作物についての著作権が適用されるようになりました。

 著作権法で保護の対象となる著作物であるためには,以下の事項をすべて満たすものである必要があります。

(1)「思想又は感情」を表現したものであること

 すなわち、単なるデータだけでは著作物として認められません。

(2)思想又は感情を「表現したもの」であること

 アイデアだけでは、直作物として認められないので何らかの文書にしておきましょう。

(3)思想又は感情を「創作的」に表現したものであること

 もちろん、独自性のない他人の作品の単なる模倣では、著作物として認められないのです。

(4)「文芸、学術、美術又は音楽の範囲」に属するものであること

 工業製品等は除かれます。
 文化庁のウェブサイトによると、下記のようになっています。

 具体的には、小説、音楽、美術、映画、コンピュータプログラム等が、著作権法上、著作物の例示として挙げられています。


 その他、編集物で素材の選択又は配列によって創作性を有するものは、編集著作物として保護されます。新聞、雑誌、百科事典等がこれに該当します。


  
文化庁著作権 ←クリック


【経営コンサルタントの独り言】

■ 著作物でも著作権を行使できないことがある


 著作権法の制定は、1899(明治32)年なのですね。歴史の古いのに驚きました。

 同年7月22日に「著作権法」が制定され、日本にも著作権制度が導入されました。

 日本では、著作権というのは「創作した時点で発生する」ということで、登録しなくても著作権があります。

 もちろん、著作物として登録しておけばベターでしょう。


 自然科学に関する論文は、著作権を主張できませんので、C&P自由となります。
 
 大阪地方裁判所の判決では、『論文に同一の自然科学上の知見が記載されているとしても、自然科学上の知見それ自体は表現ではないから、同じ知見が記載されていることをもって著作権の侵害とすることはできない。また、同じ自然科学上の知見を説明しようとすれば、普通は、説明しようとする内容が同じである以上、その表現も同一であるか、又は似通ったものとなってしまうのであって、内容が同じであるが故に表現が決まってしまうものは、創作性があるということはできない』としています。

 ただし、C&P自由といいましても、拡大解釈しますと法律に反することになります。

 あたかも自分の著作物であるかのような表現をすれば当然ながら著作権法に違反します。

 C&Pが簡単にできるからと言って、”自分の勝手な解釈”により、他者の著作物を安易に利用することは絶体にあってはならないと考えます。

 
■ 【今日は何の日】その他
◇ 熊谷うちわ祭
◇ 敦賀気比神社総参祭
◇ うわじま牛鬼まつり(~24日)


【きょうの人】

■ 高峰 譲吉 日本の科学者、実業家で、薬学博士 タカジアスターゼを発明


 たかみね じょうきち
 嘉永7年11月3日(1854年12月22日) - 大正11年(1922年)7月22日)

 日本の科学者、実業家で、薬学博士でもあり、タカジアスターゼやアドレナリンを発明した人です。

 アメリカ合衆国で巨万の財を成し、製薬会社・三共を創業しました。

 富山県高岡市生まれ、東京大学工学部の前身の一つであります工部大学校を卒業しています。

 理化学研究所の設立者の一人でもあり、1912年には、帝国学士院賞受賞し、1913年に帝国学士院会員となっています。

 会社が軌道に乗り始めた折、かねてより米国で特許出願中でありました「高峰式元麹改良法」(ウイスキーの醸造に日本の麹を使用しようというもので、従来の麦芽から作ったモルトよりも強力なデンプンの分解力を持っていた)を採用したいというアメリカの酒造会社より連絡をうけました。

 1890年に渡米し、東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に渡米を止めるように言われました。

 高峰は当初渡米を渋っていましたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意します。

 渡米後、木造の研究所をこしらえ研究を続けますが、麹を利用した醸造法が採用されたことでモルト職人が儲からなくなり怒りを買います。

 新しい醸造工場にモルト職人を従来より高い賃金で雇うことで和解するなど、その人材活用術はすばらしいものであったようです。

 しかし、モルト工場に巨額の費用をつぎ込んでいた醸造所の所有者達が、高峰の新しい醸造法を止めようとしました。

 夜間に譲吉、キャロライン夫妻の家に武装して侵入し、高峰の暗殺を試みたのですが未遂に終わりました。

 1894年、デンプンを分解する酵素、いわゆるアミラーゼの一種であるジアスターゼを植物から抽出し「タカジアスターゼ」を発明しました。

 また、アメリカの会社のアルミニウム製造技術と原料を使い、富山県黒部川の電源開発による電気を利用した日本初のアルミニウム製造事業の推進にも取り組み、1919年高峰譲吉らによって 東洋アルミナムを設立するなど、実業家としての地位を固めました。





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■■絵手紙と年齢 【今日は何の日】 7月23日

■ 海の日

 海の日(うみのひ)は、日本の国民の祝日の一つで、7月の第3月曜日にあたります。

 1995年(平成7年)に制定されて、1996年(平成8年)から施行されています。制定当初は7月20日でした。2003年(平成15年)に改正された祝日法のハッピーマンデー制度により、7月の第3月曜日となっています。

「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨とした記念日です。
 世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけです。四方を海に囲まれ、海の恵みを享受できる国であるからこその発想ですね。

 2021年度は、東京オリンピック開会式の前日が海の日になります。

■ 文月ふみの日

 毎月23日は、「ふ(2)み(3)」の語呂合せから「ふみの日」となっています。

 7月の旧名称から7月23日は「文月ふみの日」として、ふみの日の中でも特別な存在です。

 もともとは、郵政省(現在の日本郵政グループ)が1979(昭和54)年に、日本人にもっと手紙を書いてもらおう、その結果売上が伸びるようにという下心から始まったことです。

■ 【今日は何の日】その他


 ◇ 相馬野馬追祭(~25日)
 ◇ 陶器祭(~26日)
 ◇ 宇和島霊祭

【経営コンサルタントのひとり言】

■ 絵手紙と流儀


 郵政省の「ふみの日」は、ビジネス上の下心から始まったといっても、手紙を書くことは結構なことです。最近は絵手紙という形で、はがきに絵を描き、短文を添えて人に送るという風雅な趣味があります。受け取ると、相手の人の心の温かさを感じ取れます。

 ところが、この絵手紙は、日本時らしく「流儀」があるようです。詳しくは知りませんが、例えば文字を書くときには筆の情報を持って書くようです。私の小学校時代の恩師で、筆の達筆な方がいらっしゃいます。絵手紙を受け取った人から「等々あの人も手が震える年になってしまったのか」と心配の電話をもらったそうです。

 筆の情報を持って文字を書いたのでは、振るえた文字になってしまいますね。

(ドアノブ)



【きょうの人】

■ 二宮 尊徳


 にのみや たかのり
 天明7年7月23日(1787年9月4日)-安政3年10月20日(1856年11月17日)

 江戸時代後期の経世家、農政家、思想家です。自筆文書では、金治郎(きんじろう)と署名している例が多いのですが、一般には「金次郎」と表記されることが多いです。

 諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読みますが、「そんとく」という読みで定着しています。

 経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。

  四字熟語 経世済民
  http://www.glomaconj.com/joho/keieijoho.htm#17


相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市)に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。

 尊徳は、まず生まれた堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻としますが、離縁、20歳も若い、貞淑温良ななみ(波子)と結婚しました。

 文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げるなど、成果を出しています。

 小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼し、千両もの負債を償却し、頭角を現しました。

 文政4年(1821年)には、小田原藩主大久保家の分家であります宇津家の旗本知行所が荒廃していて、再興救済を藩主より命じられました。農民の抵抗で苦労しましたが、再建しました。

 晩年近く、天保4年(1833年)には、天保の大飢饉が関東を襲いましたが、金次郎の力を充分に発揮しました。


 二宮金次郎といえば、戦前には、どの学校にも銅像が建っていると言えるほど、一般的でした。背中に芝を背負い、本を読む姿は、子供達へのお手本でした。今日では、歩きスマホが避難を浴びていますが、当時は、むしろ誉められる行為だったのですね。




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■■【今日は何の日】アナログ放送終了日 7月24日

■ 盂蘭盆会(うらぼんえ)

 毎月24日は地蔵の縁日で、お盆に一番近い旧暦7月24日の地蔵の縁日を地蔵盆といい、特に盛大に祝われます。明治の改暦以降は月遅れで8月24日に行う地方もあります。

 地蔵盆のお地蔵様は、寺院に祀られている地蔵ではなく、道祖神信仰と結びついた「路傍や街角のお地蔵さん」いわゆる「辻地蔵」が対象となっています。

 期間としては、当日の前日の宵縁日(旧暦7月23日)からの3日間で縁日(祭り)は、その期間内のいずれかに行われます。

 旧暦7月24日以外の地蔵菩薩の縁日の24日は、地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭と呼ばれます。

 旧暦7月24日については盂蘭盆会(お盆)の時期に近く、それにちなんで地蔵盆と呼ばれるようになりました。


■アナログ放送終了日

 2011年7月24日正午にアナログ放送が終了し、デジタル放送に完全移行しました。

 懸念されていた混乱も少なく、関係者はホッとしたでしょう。

 わが家にはアナログの録画機が複数台あり、それが使えなくなります。ダビング用に1台を残すにしても、自治体ではその廃棄処理をしてくれず、回収業者も有料でないと引き取ってくれないという不便を記憶しています。

 このような転換期には、そのくらいのサービスをしてくれても良いように思えます。


■ 天神祭(てんじんまつり)

 7月24日~25日は、大阪市北区にある天満宮で夏祭りである「天神祭」が開かれます。菅原道真公の鎮魂祭が起源で、なんと千年以上の歴史を持っている伝統あるお祭りです。

 25日には水上渡御が行われます。「どんどこ船」など百隻以上の渡御船団が神幸します。神霊が御座船に乗り、船列には、献茶等や文楽人形が乗せられて堂島川を都鳥大橋まで上ります。

 打ち上げ花火が祭りを盛り上げる勇壮なもので、日本三大祭りの一つといわれています。

 因みに、三大祭りというと天神祭、祇園祭、神田祭を指します。


  図 大阪天満宮・天神祭 ←クリック

 
■ 【今日は何の日】その他
◇ 地蔵盆
◇ 相馬野馬追大祭
◇ 大田原太田山地蔵尊夏祭
◇ 河童忌
◇ 道隆忌
◇ 虎関寂

【経営コンサルタントの独り言】

■ 「すなあらし」が懐かしい昨今です


「すなあらし」といいましても、お相撲さんの砂嵐のことでも、映画のアラビアのロレンスでもありません。

 かつて、テレビのアナログ放送時代は、放映がない時間帯に、テレビを付けますとザーッという音とともに画面が砂嵐のような状態になりました。

 あるいは三原色を中心とした縦横のストライプのテスト送信画面になることもありました。

 ところが、最近はそれがなくなりましたが、ご存じない方が多くなってきました。

 ひとつには、テレビ放送が24時間放映というのが日常化しているからでしょう。

 2011年7月24日正午にアナログ放送が終了し、デジタル放送に完全移行しました。


(ドアノブ)


【きょうの人】

■ 大覚禅師(蘭溪道隆)


 だいざく/らんけい どうりゅう
 嘉定6年(1213年)- 弘安元年7月24日(1278年8月13日)

 鎌倉時代中期の南宋・涪州涪陵県蘭渓邑(現在の重慶市涪陵区藺市鎮)から渡来した禅僧で、諡は大覚禅師、俗姓は冉、名は莒章、法諱は道隆、号は蘭渓です。

 大覚派の祖で、無明慧性の法嗣、建長寺の開山を行っています。

 13歳で出家し、無準師範・北礀居簡に学んだ後、松源崇嶽の法嗣である無明慧性の法を嗣いでいますし、松源崇嶽の法嗣である無明慧性の法を嗣ぎました。


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■■矛盾は楽しむもの 【今日は何の日】 7月25日

■ 隅田川花火大会(7月下旬の土曜日)

 東京の隅田川で、毎年七月下旬の土曜日に、桜橋二百問橋間、駒形橋・厩橋間の二ヶ所で打ち上げられる「隅田川花火大会」が開催されます。

 広重でもおなじみの花火大会ですが、1978年(昭和五十三年)に復活しました。毎年数万発の花火が打ち上げられ、数においては日本有数です。一方、人口密集地の東京ですので、三尺玉など大きな花火は打ち上げられません。

  図 隅田川花火大会 ←クリック


 この時期、全国の代表的な花火会社のコンテストが毎年開催されています。

 私が楽しみにしている細谷煙火店です。


 東京では、たまがわ花火大会、立川まつり国営昭和記念公園花火大会など、代表的な花火大会だけでも年間30回ほど開催されます。

 伊豆諸島でも、隅田川花火大会が開催されます。

 これらと比べると規模は小さいのでしょうが、知人によりますと、人々の温かさを感じたそうです。


 長岡の花火大会は、大玉で知られています。

 大きいだけではなく、広がりも演出して工夫されています。

 花火大会といいましてもただ、打ち上げれば良いというものではありません。

 差異化(差別化)して、多くの人に楽しんでいただくことが肝要でしょう。

 つい、経営コンサルタント的発想で、幽玄な花火大会まで見てしまい申し訳ありません。 m(_ _)m



■ 徳島天神祭

 例大祭であります、天神祭は7月25日に執り行われます。この日は、陰暦で6月25日にあたり、御祭神菅公の誕生日であることから、この日が選ばれました。

 徳島天神社は、潮音寺の鎮守として、瑞巌寺一顎和尚が甲州恵林寺から携えてきた高さ6寸の渡唐天神木象を祀ったのが天神社の起源とされています。

 文化6年(1809)現社地に創建、潮音寺の神像を祀り、旧藩主蜂須賀公が代々保護し、文教の神として尊崇されてきました。

 学問の神様と言われる菅原道真公を祀っていることもあり、県内外の受験生が訪れます。
 境内には「知恵の牛」が座しており、さすればさするほど知恵がつくと言われています。
 阿波おどり会館(眉山ロープーウェイ)に隣接していることもあり、夏の風物詩でもある阿波おどりは社の周りで開催されています。


■ 味の素の日 矛盾は楽しむもの

 1908(明治41)年7月25日に、東京帝国理科大学(現在の東京大学理学部)教授の池田菊苗博士が、「グルタミン酸塩を主成分とせる調味料製造法」の特許を取得しました。それを記念して「味の素の日」が制定されました。

 池田博士は、うまみの主成分がアミノ酸で、その主成分がグルタミン酸であることを発見され、製法特許を取りました。その特許を元に鈴木製薬所(現在の味の素株式会社)が、味の素という調味料として商品化しました。

 「味の素をたくさん売るには、瓶の蓋の穴を大きくするとたくさん消費され、その結果売上が伸びる」という女性社員の提案を受けて実施した、という逸話があります。

 その真偽は定かではないようですが、マーケティングの視点では学ぶべきものがあります。一方で、ムダな使い方をすることは好ましくなく、もしそれが事実であれば企業イメージという点ではマイナスにもなりかねません。

 世の中は、矛盾の中で生活をしていかなければならないという教えでしょうか。

 私は、「矛盾は楽しむもの」と考えています。

■ 【今日は何の日】その他
◇ 天満太宰天神夏祭
◇ 徳島天神祭


【経営コンサルタントの独り言】

■ ”穴”を大きくすべき、それとも否か それが問題だ

 私が子供の頃、巷では、「味の素はふりかけ口の穴を大きくしている」という噂が駆け巡っていました。

 駆け巡るはオーバーにしろ、ささやかれていました。

 味の素のふりかけ口の穴を大きくすれば、沢山の味の素が出るので、消費量拡大に繋がり、売上高が増え、会社が儲かるという、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な発想です。

 これは、マーケティングの理屈に合った戦略なのか、それとも噂は単なる噂だったのでしょうか?

 企業戦略は難しいですね。

 経営コンサルタントの私が、そのようなことを言っていては、経営者は立つ瀬がありませんね。

 すみません!!! m(_ _)m


■ 早朝ウォーキングと楚々とした花との出会い

 朝、散歩をしていた時に白い桔梗が咲いているので思わず携帯で写真を撮ってしまいました。

 桔梗は、秋の七草の一つで、万葉集のなかで秋の七草と歌われています。花言葉は「清楚」とか「気品」で、紫色が普通ですが、白い桔梗はまさに清楚という感じがいたします。

 咳止めは喉の薬として漢方薬では知られています。サポニンという薬効成分は草花の害虫薬として使われていることもよく知られています。

 NHKのラジオ朝一番という番組がありますが、そこで「今日の花」というコーナーがあり、花言葉とともに、その花が関わる歌や俳句が紹介されます。桔梗にまつわるものでは、加賀千代女の

  桔梗の花
  咲く時ぽんと
  言ひそうな

は、私の好きな句の一つです。





【きょうの人】

■ 聖宝(理源大師)
生誕


 しょうぼう
 天長9年2月15日(832年3月21日)- 延喜9年7月6日(909年7月25日)

 平安時代前期の真言宗の僧、醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖でもあります。また、後に当山派修験道の祖ともされています。

 俗名は、恒蔭王(つねかげおう)で、天智天皇の6世孫にあたり、父は、葛声王(かどなおう)といい、諡号は、理源大師です。

 三論、法相、華厳などを学び、後に、密教を真雅、真然より授かっています。醍醐寺を開き、また東南院を建てて、三論宗の本拠地としています。

 役行者(役小角)の遺風を慕って、その最高に務めたので、後世、修験道の中興と言われるようになりました。

『古今和歌集』に歌一首があります。

 聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になるのだそうです。

 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。

 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。

 そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。

 鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。

 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。

 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。




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■■【今日は何の日】日光の日 7月26日

■ 日光の日

 「日光を見ずして、結構と言うなかれ」という言葉がありますが、それほどすばらしいところであるという形容でしょう。

 この日光を820(弘仁11)年7月26日に訪れた弘法大師が「日光山」を命名したのを記念して、7月26日が「日光の日」と制定されまた。

 日光東照宮の隣に「二荒山神社」という神社があります。「ふたらさん」と読みますが、「二荒」から「にっこう」と音読みして命名したと伝えられています。

 東照宮には、「眠り猫」や「見ざる聞かざる言わざる(猿)」を始めいろいろな見どころがあります。社の奥にあることから、意外と見落としやすいのが家康の陵墓です。

 子供の頃、「鳴き龍」を見たときの、薄暗い中で「ブルルー」となく声(音)のふしぎさは、今でも記憶に残っています。



■ 奈良薬師寺竜王社祭

 奈良薬師寺の「龍王社」は、薬師寺の白鳳伽藍の南東端、境内では珍しく穏やかな佇まいを見せる「東院堂」の南側に隣接する立派な神社です。

 例祭であります「龍王社祭」は毎年7月26日14時から実施され、周辺地域の方々の参列の下行われる五穀豊穣をお祈りする祭事です。

 竜王社は、薬師寺に比べますと知名度も低く、神社は訪れる人も少ないです。

 しかし、現在奈良国立博物館の所蔵となっている金色の「龍神像」をかつてはお祀りしていました。

 龍神信仰のみならず天武天皇の皇子であり、謀反の疑いを掛けられて自害することになった悲劇の存在として歴史に伝わる存在である「大津皇子」の怨霊、「悪龍」となった皇子を鎮めるための「大津龍王宮」としても機能していたとも言われています。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 薬師寺竜王祭
◇ 摩尼寺会式


【経営コンサルタントの独り言】

■ 日光を見ずして結構というなかれ

「日光」の語源といいますか、名前が付けられた経緯というのは、やはりあの人が絡んでいるのですね。

 しかし日光の起源は、8世紀末に遡ります。

 当時は、日光という名前を使っていなかったようです。

 日光を開山したのは、勝道上人で、四本竜寺を建立したのが日光の起源といわれ、日光山の中心寺院として発展してきました。

 1653(承応2)年に、三代将軍・徳川家光公の霊廟である大猷院(たいじゅういん)が境内に造営されて以来、徳川幕府の庇護を受けるようになりました。

 日光は、1999年(平成11年)に「日光の社寺」として世界遺産に登録されています。

 登録内容は、日光山内にある二荒山神社東照宮輪王寺です。総数103棟(国宝9棟、重要文化財94棟)が含まれています。

 私が訪れたのは10月下旬で、紅葉には一週間早すぎた感がします。それでも、処々に紅葉や黄葉した木々が、私を迎えてくれました。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tochigi/nikko2016-2.htm




■ ぽつりと独り言


 2010年の今日、娘が十余年にわたり勤務していた会社を退社し、上司や同僚が送別会を開いてくれました。

 大きな花をいただき、涙を流すまいと思っていたけど流れてしまったそうです。

 写真のようなブーケを6つもいただいたとか・・・涙が出ても仕方がないですね。6つの内の一つをわが家に届けてくれました。(写真)

 長い間、ご苦労様でしたという気持ちが今でも起こります。

 その娘も今や二人の子持ちです。



【きょうの人】

■ 隆光


 りゅうこう
 慶安2年2月8日(1649年3月20日)-享保9年6月7日(1724年7月26日)

 江戸時代中期の新義真言宗の僧で、大和国の旧家河辺氏からの出身。初名は、河辺隆長、字(あざな)は栄春です。

 1658年(万治元年)仏門に入り、長谷寺・唐招提寺で修学した後、奈良・醍醐で密教を修め、儒学・老荘をも学びました。

 1686年(貞享3年)5代将軍徳川綱吉の命により、将軍家の祈祷寺である筑波山知足院の住職となり、その後、急速に綱吉の帰依を得ることになりました。10月3日に、江戸城黒書院で安鎮法を修しています。

 1688年(元禄元年)には、知足院を神田橋外に移して護持院と改称してその開山となりました。

 1695年(元禄8年)には新義真言宗の僧では初めて大僧正となり、宝永4年2月25日に隠居し、駿河台成満院へ転住しました。

 しかし、綱吉の死去と共に失脚し、宝永6年(1709年)には江戸城への登城を禁じられるまでに至りました。

 筑波山知足院への復帰願いも認められず、失意の内に大和に帰郷し没したといわれています。墓所は大阪府羽曳野市と奈良市の佐紀幼稚園裏の2カ所にあります。



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■■電子マネー 【今日は何の日】 7月27日



■ 第30回 夏季オリンピック

 ロンドンで2012年今日7月27日から8月12日まで「第30回 夏季オリンピック」が開催されました。

 オリンピックの時ほど国旗掲揚が感動的なことは少ないですね。平素から、国旗に関して、日本人はもっと考えるべきではないでしょうか。ただし、私は国粋主義者ではありません。

■ スイカの日


 7月27日は「スイカの日」です。スイカの縞模様を綱(つな)に見立て、「つ(2)な(7)」(綱)とよむ語呂合せから来ているそうです。

 スイカは「西瓜」と書くことはよく知られています。この漢字は、中国語のすいかに由来しますが、その発音が広東語では「サイクワァ(西瓜)」と発音されるそうです。これが日本に来て「すいか」と発音され、漢字では「西瓜」とそのまま書いているようです。

 スイカというと、首都圏に住んでいる方は、JR東日本が発券する「Suica」カードを連想する方も多いでしょう。すいすい通れることから「すいか」と名付けたモノと勝手に想像しています。

 Suicaが電子マネーとして利用できるようになってから小銭が財布に貯まって困ることが少なくなりました。残金が一定の金額以下になると、改札口を通るときに自動的にチャージしてくれるので、金額不足で後ろから来る人に迷惑をかけることも少なくなりました。

 いままでは、地方出張をしたときには、小銭が貯まってしかたがなかったのですが、最近は利用範囲も広がり、大都市では結構Suicaが使えるようになりました。今後利用地域が広がるとさらに便利になると思います。

 また、他のカードとの互換性も高くなりました。技術的には問題は少なく、当初は利権争い的な面でセキュリティをかけていたようです。電話の番号ポータビリティ性前の状況と考えるとわかりやすいです。

 前金制ですから、金利が高くなると金利収入だけでも相当な金額になるのではないかと、JRの懐を羨んだりしています。

 しかし、利便性とリスクは裏腹な問題を含むことを忘れてはいけません。

 データが抜き取られ、悪用される懸念はついて回っています。上限金額は、2万円(Suicaの場合)ですが、リスク上限は2万円とは限りません。オートチャージ設定をしていると繰り返されれば天井がなくなる(口座残金まで)わけですから、紛失したら怖いです。

 Suicaの場合には、紛失したときには氏名、生年月日、性別情報があればすぐに停止処理と再発行手続きに入れます。

  
Suica再発行 ←クリック

 ご自身のカードの紛失したときの手続き方法を確認しておいた方が良さそうです。


■ 【今日は何の日】その他
◇ 土用の丑
◇ 良隆誕生
◇ 神奈川大山阿夫利神社夏季大祭
◇ 宇佐神社夏越大祭(~29日)


【経営コンサルタントの独り言】

■ スイカの季節になりました

 土用の入りで、ウナギを食べた人が多いと思います。

 近年、うなぎ登りに高騰していたウナギですが、今年は稚魚の豊漁とかで少し下がっているようです。

 ウナギを食べる前には、スイカは絶体に食べないようにしてください。

 昔から「食べ合わせ」という言い伝えがあり、私達に警告を与えてくれています。

 ウナギとスイカの食べ合わせで、お腹が痛くなるのです。

   m(_ _)m

 これは、どうやら迷信で、この季節を代表する食べ物なので、たくさん食べ過ぎてお腹を悪くすることがあるので、食べ過ぎに注意をしましょうという警告のようです。

 良くいわれるのがウナギと梅干しです。

 梅干しは、むしろ酸味が脂の消化を助けるために、かえって良い働きをします。

 スイカとビールの食べ合わせはどうやらホンモノのようです。

 両者ともほとんどが水分ですし、両者とも利尿作用があるのです。

 ご本人は、水分をとっているつもりが、多くが膀胱に溜まってしまい、ひどい場合には脱水症状に陥ることがあるそうです。

 しかし、私は、この説には同意しかねます。

 スイカの利尿作用は、脱水症状を引き起こすほど強くなく、水分としての働きの方が、尿化する量を上回るので、スイカとビールはそれほど悪い組み合わせではないと考えます。

 専門家と言われる人達の中には、机上の理論をあたかも“真”の理論のごとく話す人が多いので、注意しましょう。


【きょうの人】

■ 良忠


 りょうちゅう
 正治元年7月27日 - 弘安10年7月6日 (1199年8月20日 - 1287年8月16日)

 鎌倉時代中期の僧で、浄土宗第3祖、諱は然阿(ねんな)、記主禅師の諡号が滅後7年の永仁元年(1293年)に伏見天皇より贈られています。

 善導寺にて『末代念仏授手印』などを授かり、『領解末代念仏授手印鈔』を著して弁長の印可を受け、学問的な後継者となりました。

 信濃国に向かい善光寺に参拝したりしています。建長元年(1249年)には利根川に沿って関東に下り下総国の教化をはじめ、翌年には『浄土大意鈔』を著します。

 そして、浄土宗学の基本となる『決答授手印疑問鈔』や『観経疏伝通記』などを著し、各地で講義を行いつつ弟子の育成に努めていました。しかし、正元元年(1259年)外護者の椎名八郎と衝突し、数人の弟子を連れ匝瑳南条荘を去って鎌倉に入りました。

 鎌倉では、大仏勧進聖浄光の坊に仮寓し一時をすごしましたが、大仏朝直の帰依を得て佐助ヶ谷に悟真寺を創建しました。朝直の子時遠から悟真寺坊地や寺領の寄進を受け経済的にも安定し、専修念仏の指導的な立場に立つとともに、他宗の僧侶からも高い評価を受けました。

 建治2年(1276年)には、弟子の要請によって上洛し、間もなくして紫野門徒源智の弟子であり、百万遍知恩寺3世の信慧と東山の赤築地(あかつじ)において談義を行っています。

 弘安9年(1286年)、当時混乱していた浄土宗の統一に尽力し、鎌倉に戻った良忠は、長男の良暁に浄土の奥義を伝授し、弘安10年7月6日(1287年8月16日)、89歳で入寂しました。




■ デュマ 椿姫を代表作とするフランスの劇作家

 アレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)
  1824年7月27日 - 1895年11月27日

 フランスの劇作家、小説家で、父(大デュマ)と区別するために「小デュマ」、またはフィス(息子)を付けて呼ばれます。

 ロマン主義演劇の大家であった父の影響を受けながらも、小さな世界を写実的にしっとりと描く作風が特徴です。

 パリに生まれ、充分な教育を受けました。

 若い頃は、父親の金で遊び呆けていましが、1844年暮れ、20歳の時に7人もの大金持ちのパトロンを持つ高級娼婦(クルチザンヌ)マリー・デュプレシと出会い、恋に落ちました。

 マリーは間もなく病死するのですが、1848年に彼女との思い出を小説『椿姫』として書き上げて出版し、これがデュマの代表作となりました。翌年、その戯曲版を執筆して大成功に収めます。

 パリの演劇界で絶大な影響力を持ち、経済、文学両面でも大成功を収め、フランスの国立学術団体でありますアカデミー・フランセーズ入り(座席番号2)も果たしました。





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■■C型肝炎と病院の責任 【今日は何の日】 7月28日

■ 世界肝炎デー


 ことの始まりは、C型肝炎の啓発がきっかけで、2008年に世界肝炎アライアンスの「世界肝炎デー」です。

 肝炎とは、何らかの原因で肝臓に炎症が起こり発熱、黄疸、全身倦怠感などの症状を来たす疾患の総称(Wikipedia)です。ウィルス性による肝炎が主流で、特に日本では80%がウィルスによるものです。

 私の義母はすでに他界しているのですが、何度か誤飲性肺炎で入院をし、あるときにC型肝炎にかかっていると医師より言われました。その直前の入院時に肝炎のチェックをしていて、陰性だったので、院内感染だと主張しましたが、病院側はなんとしても認めませんでした。

 因みにC型肝炎というのは、「血液感染(麻薬の注射器での回し打ち、刺青、輸血、血液製剤等)」(Wikipedia)のことです。

■ 菜っ葉の日

 7月28日は、「菜っ葉の日」です。

  7 七(な)
  2 two(ツー)
  8 八(は)

 加齢と共に、咀嚼力が減退、それに伴いレタスなどの結球野菜を生で食べる量が減少してきたように思えます。

 同じ葉物野菜でもほうれん草などのようにみそ汁などにする非結球野菜は、以前と変わらず食べています。

 加齢と共に処々が衰えてきているのですね。


【Wikipedia】葉菜類(ようさいるい)

 主に葉の部分を食用とする野菜のこと。
 非結球性葉菜類(ホウレンソウ、コマツナなどの葉が広がっているいわゆる「菜っぱ」もの)と結球性葉菜類(キャベツなどの丸く固まった形状のもの)とに分類される。



■ 【今日は何の日】その他
◇ 館山寺灯籠流し
◇ 和歌山粉河祭(~29日)
◇ 宇佐八幡夏越神事


【経営コンサルタントの独り言】

■ 「菜っ葉」とは その語源と命名の経緯は?


 7月28日は、「菜っ葉の日」でした。

 因みに、「菜っ葉」という言葉は、大和言葉では「菜(な)」といいます。

「菜の葉」がなまって「菜っ葉」となり、葉を食する植物であるので、主体が葉であることから、「菜」のことを、いつしか「菜っ葉」というようになりました。

 今日では、国語辞典でも「菜っ葉」も見出し語として掲載されています。


 近年、葉菜類の種類が増え、その種で呼ぶことが多く、「なっぱ」という言葉をあまり聞かなくなりました。

 ましてや、「なっぱ服」となると、死語といえるほど、聞きません。

「なっぱ服」とは、私が子供の頃よく見かけた工場で働いている人が着ていた薄い青い色の「つなぎ」のことなのです。

 遠目には今日のジーンズのように見えますが、素材が木綿だったと思います。


 しかし、なっぱは緑色なのになぜ、薄青色のつなぎのことをこのように呼ぶのかよくわかりません。

 調べていくうちに「菜っ葉服とは、”黄土色”の作業服である」という記述を見つけました。

 菜っ葉服は、着ているうちに、汚れて、しわが寄ってくるうちに、菜っ葉のように見えることから命名されたといいます。

 もともとは、黄土色だったのが、私の子供の頃には染料の関係か何かで、薄青色を使うようになってきたのでしょうか。


 因みに岩波国語辞典第七版では「青い色の、作業服。つなぎ(服)」と「青色」と明記されています。

 日本人は、古来より「青」「赤」「白」が、代表的な色としてきました。

 なっぱの緑色は「青色系」ということで、菜っ葉の色を「青色系→青」とみなして、当時染料として入手しやすい薄青色を菜っ葉服の色としたのではないかと、私は結論づけました。


 私は、東京の西部に住んでいましたが、子供の頃、五日市線という当時の国鉄では、まだD51が走っていました。

 拝島駅(当時の五日市線の起点)で出発準備をしている菜っ葉服を着たおじさん(おにいさんだったのかもしれません)が、石炭を釜にくべているのに見入ったことを思い出します。


【きょうの人】

■ 江戸川 乱歩


 えどがわ らんぽ、旧字体:江戶川 亂步
 1894年(明治27年)10月21日 - 1965年(昭和40年)7月28日)

 大正から昭和期にかけて主に推理小説を得意とした小説家・推理作家です。

 戦後は推理小説専門の評論家としても知られています。実際に探偵として、岩井三郎探偵事務所に勤務していたという経歴を持っています。

 本名は平井 太郎(ひらい たろう)で、日本推理作家協会初代理事長を務め、位階は正五位、勲等は勲三等です。

 ペンネーム(江戸川乱歩)は小説家の、エドガー・アラン・ポーに由来するということは、推理小説にご興味のある方であれば、想像がつくでしょう。

 三重県名賀郡名張町(現・名張市)で、名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれました。平井家は武士の家柄で、乱歩の祖父の代まで藤堂家の藩士として勤め上げました。

 1917年(大正6年)11月、鳥羽造船所電機部に就職し、庶務課に配属されました。技師長に気に入られ、社内誌「日和(にちわ)」の編集や子供へおとぎ話を読み聞かせる会を開くなど地域交流の仕事に従事しました。

 1923年(大正12年)、『新青年』とう雑誌で、『二銭銅貨』でデビューしました。欧米の探偵小説に強い影響を受け、本格探偵小説を志し、黎明期の日本探偵小説界に大きな足跡を残したのです。

 江戸川乱歩の小説は色々な形で出版され、光文社文庫の「江戸川乱歩全集」(全30巻)、創元推理文庫(全20巻)をはじめいろいろな形で出版されました。

 助手の小林少年が登場する名探偵・明智小五郎シリーズは、コナン君にも通ずるものがあり、少年達の心をわしづかみにしました。



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■■【今日は何の日】白出しの日 7月29日


 アマチュア無線の日

 7月29日は、「アマチュア無線の日」です。日本アマチュア無線連盟が1973年に制定しました。

 第二次大戦までは、アマチュア無線は禁止されていましたが、1952年のこの日に、それが解禁されました。

 最初に免許交付を受けたのは、全国で30名だったそうです。しかも、予備免許という形だったそうです。

 現在は、約43万局のアマチュア局があり、日本は世界的にもアマチュア無線が盛んな国なのだそうです。

 パソコンが一般の人でも利用し始めた頃、その中にはアマチュア無線家が多かったということを聞いています。

 アマチュア無線の愛好家は、時代の潮流を読むのが上手なのかもしれませんね。仲間同士の交信で、パソコンに関する情報も流れて、多くの人がパソコンを利用し始めたのかもしれません。

  日本アマチュア無線連盟

  http://www.jarl.or.jp


■ 白出しの日

 7月29日は「白だしの日」です。1978年に愛知県安城市の七福醸造が「白だし」を製造販売したことを記念して制定されました。同社名の「七」をひち(7)」、「福」を「ふ(2)」「く(9)」と読ませてこの日に決められました。

 白醤油のメーカーだったことから、白醤油や淡口醤油に昆布や鰹節などから取った出汁やみりんなどを加えて製造販売を始めたものです。赤だし味噌の味噌汁とともに、白出しは吸い物には欠かせないですね。

 素材の色や風味を活かせるということから煮物にも合います。最近は、和食以外でも結構使われるようになったようです。


【経営コンサルタントの独り言】

■ 経営コンサルタントをしていて思うこと


 7月29日は、アマチュア無線の日だそうです。アマチュア無線を通じて情報の共有を図っていると思います。

 それが人脈づくりに繋がるのでしょう。


 経営コンサルタントは、全国処々でいろいろな会社や組織、個人と面談します。話の確認と共に御礼を述べます。

 あるとき、同行者のアドバイスで、手書きの手紙にしました。

 同行してくれた経営士・コンサルタントは、相手に対する配慮の行き届く人で、今回の出張前には、マスクの用意と長袖の着用などのアドバイスをくれました。

 経営士・コンサルタントというのは、人との関係が重要ですので、このような配慮ができるとビジネスチャンスも拡大するでしょう。


【きょうの人】

■ 堀田 正英


 ほった まさひで
 寛永15年(1638年)-貞享5年7月3日(1688年7月29日)

 江戸時代前期の大名、常陸北条藩主で、江戸幕府の若年寄も務めました。

 寛永15年(1638年)、信濃松本藩主・堀田正盛の四男として生まれ、寛永18年(1641年)、第3代将軍・徳川家光の小姓となりました。

 万治2年(1659年)に、中奥の御小姓に任じられ、寛文9年(1669年)に小姓組番頭に任じられ、頭角を現してきます。

 その後も、書院番頭、大番頭と要職を歴任するようになり、延宝8年(1680年)には第5代将軍・徳川綱吉の世子・徳松の守役に任じられました。

 その後、若年寄に任じられ、1万3000石大名となり、常陸北条藩主となりました。

 貞享5年(1688年)7月3日に死去、享年51才でした。




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■■一粒○百円の梅干し 【今日は何の日】 7月30日

■ 梅干しの日

 昔から「梅干しを食べると難が去る」と言われていますが、語呂合わせで「なん(7)」が、「去る(3)(0)」」で、7月30日は「梅干の日」です。和歌山県みなべ町の東農園が制定をしました。

 梅というと、なんといっても「南高梅」が筆頭と言われています。商標に関する法律で、地域団体商標制度ができて、その認定第一弾が南高梅です。商標上では「なんこううめ」となっていますが、われわれは「なんこうばい」ということが多いのではないでしょうか。

 ある人から南高梅の詰め合わせをいただいたことがあります。果肉がジャムのようで、実に美味です。孫と遊びに来ていた娘が「お父さん、これは1個ン百円もするのだから、じっくり味わって食べてね」とあたかも自分が持参したような口ぶりで言っていました。

 Wikipediaによると、明治時代に和歌山県の旧・上南部村(現・みなべ町)で高田貞楠(さだぐす)が果実の大きい梅を見つけ、高田梅と名付けて栽培したのが南高梅の始まりだそうです。高田の「高」と、その開発に尽力した南部高校の教諭竹中勝太郎氏から「南高」をとって南高梅と名付けられと記述されています。

 梅は中国が原産で、梅干は梅酢を作った後の副産物でした。梅の黒焼きが薬であるということが言い伝えられています。腹痛や解熱などに利くと言われ、子供の頃祖母より食べさせられた「苦い記憶」があります。



■ 住吉祭(すみよしまつり)

 大阪の住吉大社で7月30日?8月1日にかけて毎年「住吉祭」が開催されます。

 大阪各地の夏祭りの最後を飾る、夏越しの祓いを兼ねた祭りです。茅の輪くぐりが行われたり、芸妓さん達の行列、大神輿や地車も繰り出します。

  図 住吉神社・住吉祭 ←クリック

【今日は何の日】その他
◇ 建仁寺大布薩四季説戒
◇ 粉河祭
◇ 宗祇忌


【経営コンサルタントの独り言】

■ 一粒”ン”百円の梅干し、ホンモノの梅干し


 ある人から南高梅の詰め合わせをいただいたことがあります。

 果肉がジャムのようで、実に美味です。

 孫と遊びに来ていた娘が「お父さん、これは1個ン百円もするのだから、じっくり味わって食べてね」とあたかも自分が持参したような口ぶりで言っていました。

 スーパーマーケットの梅干しでも、その価格の高いのにも驚きます。

 やすいモノを見ますと、中国産です。

 最近は、梅干しではなく、梅漬け、梅干しまがいのものが、梅干しとして売られています。

 それはそれでおいしいですが、梅干しではないですよね。

 しその香りがほのかにして、目の前にあると口の奥の左右に酸っぱさが反射的に先行します。

 口に入れると途端に「酸っぱさ」が爆発!!!

 赤く染まったご飯が、また格別においしく感じます。








【きょうの人】

■ 松平 乗保
 江戸時代中期から後期にかけての大名・老中

 まつだいら のりやす
 寛延元年(1748年)-文政9年6月26日(1826年7月30日)

 江戸時代中期から後期にかけての大名・老中で、美濃国岩村藩主で従四位下・侍従の官位を賜っています。

 丹波国福知山藩5代藩主・朽木玄綱の八男として誕生しましたが、先代藩主・松平乗薀の長男の乗国、次男の乗遠がいずれも早世し、玄綱が初代藩主・乗紀の息子であったことから養子に迎えられ、養父の隠居により家督を相続しました。奏者番、若年寄、大坂城代、西丸老中などを歴任しました。

 1826年(文政9年) 6月26日に、老中在職のまま死去しました。享年78歳でした。





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■■【今日は何の日】蓄音機の日 7月31日

■ 蓄音機の日

 1877(明治10)年7月31日は、エジソンが蓄音機の特許をとった日で、これを記念して、この日を「蓄音機の日」と言います。

 Wikipediaによると、もともとは1875年、フランス人エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィル (Édouard-Léon Scott de Martinville) が発明したものです。彼の発明の、フォノトグラフが蓄音機およびレコードプレーヤーの前身に変換し、ホーン(直径が指数関数的に拡大する導管)により音を拡大する機械的再生機として用いられました。

 ホーン型の蓄音機というと、以前このブログにも書きましたが、ドクター中松のグループ会社を訪問した折に、蠟管を使った蓄音機の音を聴かせてもらったことがあります。

 蓄音機は、やがて真空管の小型化と性能向上に伴い、レコード針の動きを電気信号に変換して増幅し、スピーカーを鳴らす「電気式蓄音機」すなわち「電蓄」が登場しました。

 私が子供の頃、伯父が壊れて音の出ない中古の電蓄をどこからか手に入れ、それを修理し、自分が蓄音機用にコレクションしたレコードを聴いていたのを覚えています。平素は、祖父がラジオ代わりに、浪曲や落語を聴いていました。

■ 千日詣り(せんにちまいり)

 京都の愛宕神社で7月31日~8月1日に開催されます。

 愛宕山山頂にある愛宕神社は、防火・鎮火の神様で、「専一詣」といわれました。旧暦6月24日の古代の鎮火祭が起源で、この二日間に参拝すると、千日詣でたのと同じご利益があるとされています。

 京都では、何処の家にも愛宕神社のお札があるほど、ポピュラーです。

 「ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」といえば「敵は本能寺にあり!」で知られる明智光秀のうたです。本能寺の変の数日前に、愛宕神社の一角で開催された連歌の会での発句です。

  図 京都・愛宕神社 ←クリック

■ 【今日は何の日】その他
◇ 芦ノ湖湖上祭
◇ 大阪住吉夏祭
◇ 堺大漁夜市





【経営コンサルタントの独り言】

■ 音楽プレーヤーの始まりはエジソンの蓄音機の発明にある??


 デジタル録音の時代に、アナログのレコード盤の良さが見直され、一部の人が再び愛用しだしたようです。

 蓄音機は、レコード盤のプレーヤーです。

 その発明は、発明王トーマス・エジソンであると信じられています。

 しかし、それは、「誤解」です。

 蓄音機の特許は、エジソンが持っているので、その様な誤解を招いています。

 実際に、蓄音機を発明したのは、エジソンが特許を取る2年前のことです。


【きょうの人】

■ クラーク,ウィリアム・スミス


 William Smith Clark
 1826年7月31日- 1886年3月9日

 アメリカ人の教育者であり、化学、植物学、動物学の教師でもあります。農学教育のリーダーで、1876年(明治9年)札幌農学校(現北海道大学)を開校し、初代教頭を務めています。

 同大学では、専門の植物学だけでなく、自然科学一般を英語で教えたといいます。

 この他、学生達に聖書を配り、キリスト教についても講じ、のちに学生たちは「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教の信仰に入る決心をしました。

 日本ではクラーク博士として知られ、日本人から見るといわゆる「お雇い外国人」のひとりといえます。

 札幌農学校1期生との別れの際に、北海道札幌郡月寒村島松駅逓所(現在の北広島市島松)でクラークが発したとされるクラークの言葉が、よく知られています。

  「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」として知られていますが、クラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代がありました。

 1期生の大島正健(後の甲府中学校(現甲府第一高等学校)の学校長)による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることから、これを逆翻訳したものとも言われました。

 しかし、大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録しています。安東が、当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラークの言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明しました。

 安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like this old man」であり、これは「この老人(=私)のように、あなたたち若い人も野心的であれ」という意味になります。




 
 
 
 
 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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