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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

35年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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今日は何の日      11月21日
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■ 産業教育記念日

 1884(明治17)年11月21日に、「商業学校通則」が制定されました。その中で、日本の産業教育制度が創設されたのです。

 戦後「新学制の発足と産業教育の不振」と題して発表されました。戦争により実験・実習に必要な施設・設備が焼失・疎開・転用され不足してきたことを踏まえ、職業教育の必要性がわかっていながら実施できませんでした。

 その荒廃から立ち上がるために「産業教育記念日」が見直され、今日の中央教育審議会(中教審、Central Council for Education)の精神に活かされているのです。

■ 世界テレビ・デー

 11月21日は、「世界テレビ・デー(World Television Day)」です。1996(平成8)年12月に国連総会で制定された国際デーの一つです。その年の11月21日に国連で「第1回世界テレビ・フォーラム」が開催されたことが制定の契機となりました。

 テレビを通じて、平和・安全・経済・社会開発・文化交流の拡充等の問題に取り組み、世界的な交流を促進することを目的としています。

 2011年7月24日正午にアナログ放送からデジタル放送に切り替わり、画質や音質が飛躍的に向上しました。アナログテレビ本体だけではなく、録画機器も使えなくなりました。

 廃品業者がテレビ本体は回収してくれますが、録画機などは対象となって折らず、わが家でも数台をまだ未処理でいます。


■ インターネット記念日

 iPadなどが普及し、テレビを見る機会が少なくなっている反面、テレビでもインターネットを利用できる環境となって来ました。テレビとパソコン類との融合化の過渡期と言えます。

 1969(昭和44)年11月21日は、インターネットの原型であるARPAネットの公開実験が実施されました。これを記念して「インターネット記念日」が制定されました。

 もともとは軍事用のネットワークトラブルの多重化のために作られたネットワークですが、今日、軍事的にも、政治的にも、平和利用的にも、色々な目的で使われています。

 逆に、機密漏洩というトラブルも伴っています。何故、その様なことをするのか、クラッカーの心理がわかりません。

 クラッカーのことを、大半の人が「ハッカー」と呼んでいますが、もともとはこの二者は区別されていたはずです。その混同の主因は、マスコミにあるような気がします。

 「クラッカー」というのは、悪意を持って、コンピュータネットワークに不正に侵入・破壊・改竄などを行う人を指すのです。その対策をするために、ネットワークセキュリティに従事する人達が「ハッカー」です。ハッカーをクラッカーと混同することは、彼らに対する冒涜のような気がします。

【経営コンサルタントの独り言】

「殖産」ということばは、あまり馴染みがないかもしれませんね。

 鎖国政策を転換し、欧米列強に勝つためには産業振興しなければなりませんでした。

 大隈重信は、開国五十年史「又諸国の大名が乱世にも殖産興業を勉励したるは」で、明治政府のあり方を説いています。

「殖産」とは「生産物をふやすこと。産業を盛んにすること。(広辞苑第六版)」と説明されています。

 その思想を若者にも定着させようと1884(明治17)年11月21日に、「商業学校通則」が制定されました。日本の産業教育制度が創設されたのです。

 今日では、IoTやAIなどを核に産業振興が推進されています。

 本日は、「インターネット記念日」でもあります。

(ドアノブ)


■ 吉田松陰忌

 よしだしょういん
 文政13年(1830年)8月4日(西?9月20日)、長州萩城下松本村(現:山口県萩市)に生誕
 安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて死刑が執行された。享年30(満29歳没)

長州藩士、思想家、教育者で、山鹿流兵学師範でもあります。明治維新の精神的指導者・理論者・倒幕論者として知られています。私塾「松下村塾」で、後の明治維新で重要な働きをする多くの若者に思想的影響を与えた人です。


 幕末の志士吉田松陰は、海外事情を学ぶため、鎖国の禁を犯し、密航することを決意しました。

 長崎に来航したロシア船への便乗を佐久間象山に薦められ急行しましたが間に合わいませんでした。翌嘉永7年(1854)3月、来航したペリー艦隊の後を追って、弟子金子重輔と下田へ来ました。

 機をうかがい、夜中に下田市柿崎より小舟でペリー艦隊ポーハタン号に漕ぎ着け、渡米を懇請しましたが、ペリーに拒絶されてしまいました。

 壮図むなしく破れた松蔭等は、潔く自首し、拘禁された場所が、下田市宝光院長命寺(廃寺)でした。

 さらに平滑の獄に移され、同年4月11日は、江戸伝馬町の獄に送られました。

 松蔭等が、下田に滞在した期間は、24日の短いものであり、また海外渡航は失敗に終わりましたが、その行動は幕末開港の歴史に欠くことのできない重要な一ページを刻むものであり、後に与えた影響は大きかったといえます。(【Wikipedia】および下田市史蹟紹介立て看板をもとに作成)

  吉田松陰関連ページ



 

 幡随意上人

 ばんずいい
 天文11年10月15日(1542年11月21日)− 慶長20年1月5日(1615年2月2日))

 戦国時代から江戸時代初期にかけての浄土宗の学僧で、紀伊(相模国という説もあり)の出身です。号は「白道演蓮社智誉(向阿)」

 9歳の頃から出家の志があり、11歳の歳には玉縄二伝寺(藤沢市所在)で出家し、幡随意と号しました。

 その後、鎌倉の光明寺で浄土教学を修め、武蔵国川越の蓮馨寺(れんけいじ)の存貞にも学びました。

 慶長6年(1601年)、徳川家康の命により江戸で浄土宗法論の奉行役を務め、翌・慶長7年(1602年)に京都百万遍知恩寺の33世住持となります。

 慶長8年1603年には、ふたたび家康によって招聘され、江戸神田駿河台に新知恩寺(のちの関東十八檀林の一つ幡随院)を開創しました。後に上州館林に善導寺を開き、中興開山となりました。

 慶長18年(1613年)徳川家康の命により九州に下り、キリシタンの改宗に力を尽くしました。和歌山の万性寺を開創後、慶長20年に入寂、74歳でした。(【Wikipedia】を基に作成)



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