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私が訪れた名所旧跡です。

ケイタイやスマホのカメラで撮影したものもありますので画質があまりよくありません。
私の限られた感性での写真ですので、たいした作品でもありません。
自分自身の作品を、自分のために整理したものです。
京都  相国寺 養源院 
 相国寺(しょうこくじ)とは

 相国寺は、臨済宗相国寺派の大本山で、京都五山第二位に列せられています。正式名称は「萬年山相國承天禅寺」という禅宗のお寺です。

 14世紀末の室町時代、三代将軍の足利義満により創建されました。何度も焼失の憂き目に遭遇しましたが、法堂(はっとう)は1605年に再建され、日本最古の法堂建築です。

 夢窓疎石を開山とし、創建当時は室町一条あたりに総門があり、50あまりの塔頭寺院があったと伝えられています。

■ 名前の由来

 「相国寺」は「しょうこくじ」と読みます。「首相」という言葉は、「相」を「しょう」と読むことから違和感はないでしょう。「相国」とは「国をたすける」、「国を治める」という意味です。中国からきた名称で、左大臣の位を「相国」呼び、創建した義満は左大臣であったことから「相国寺」と名付けられました。

     資料出典: 相国寺公式サイト      パンフレット1  パンフレット2  パンフレット3

■ 養源院 https://kyoto-design.jp/event/20589

 養源院は、臨済宗相国寺派の塔頭の一つで、相国寺境内南西側に位置します。平素は非公開ですが、京都市特別公開50回を記念して、特別公開されていました。

 開祖は曇仲道芳(どんちゅうどうほう)で、詩文に優れたいたことから、室町幕府三代将軍である足利義満やその子義持(よしもち)の親子に寵愛されました。次図から出世を望まず、終生黒衣で通し、禅室「養源軒」に隠棲していました。

 幕末の戊辰戦争の際には、薩摩藩の野戦病院となり、イギリス人医師のウィリアム・ウィリスにより、日本で初めてクロロホルム麻酔を使った外科手術が行われました。その部屋の柱には、当時の藩士が付けたという刀傷を処々に見ることができます。

 本堂中央には、本尊・薬師如来像が安置され、その奥に毘沙門天(多聞天)が安置されています。鎌倉時代慶派仏師の作と伝わり、像高170cmの立派な寄せ木造りです。左手に檄を掲げ、玉顔をはめ込んだ眼光鋭い表情が憤怒の層を示しています。写実的で若々しく、大変印象深い作品です。

 永年、その存在は知られていませんでしたが、江戸時代に相国寺近くに住む奈良屋与兵衛(ならやよへい)の夢枕に、この毘沙門天が現れて「我が像を修復して人々に参拝せしめよ」というお告げがありました。その結果、この木像が発見されたと言い伝えられています。

 特別展は、同志社大学の大学生等の学生さん達が案内をしてくれました。


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相国寺 養源院1
 




法堂と大塔の間から
養源院の門を見る。
その奥は同志社大学構内



鎌倉時代慶派仏師の作と伝わる
毘沙門天の石碑


門正面が本堂


本堂を右手に見ながら
道なりに進みます


本堂前の庭


右手本堂


鎌倉時代慶派仏師の作と伝わる、
像高170cmの立派な寄せ木造りの
毘沙門天(多聞天)
表の立て看板を撮影

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相国寺 養源院2



五摂家の筆頭・近衛家(このえけ)「桜御所」から
移築された書院「相和亭」より
庭を望む


相和亭の池泉式庭は
移築後に忠実に復元されたものです


相和亭庭の左部分


相和亭の池泉式庭
奥が、桜御所から移築した茶室「道芳庵」


茶室「道芳庵」


相和亭の廊下
(右手の室内は撮影できません)


ガラスは移築時代の物を使っているので
平滑ではなく、灯籠がゆがんで見えます
 
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相国寺 養源院3



本堂から相和亭への渡り廊下
 
 

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