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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

 

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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 今日の写真  3月23日
 
 【今日の写真】 早春の京都 竜安寺
 

 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院。石庭で知られる。山号を大雲山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。(【Wikipedia】より)

今日は何の日    3月23日
 彼岸開け、彼岸結日 (年により日付が異なります)

 お彼岸の中日を挟んで7日間がお彼岸ですので、その際後の日である今日は「彼岸開け」です。

Wikipedia

彼岸(ひがん)とは、煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」という。

「彼岸会(ひがんえ)」は、雑節の一つで、春分秋分を中日とし、前後各3日を合わせた7日間のこと。また、この期間に行われる仏事のこと。暦の上では最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」なお、地方によっては最後の日を「はしりくち」という地方もある。俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目、六波羅蜜1日に1つずつ修めるためとされている。

■ 世界気象デー 

 3月23日は国際デーの一つである「世界気象デー(World Meteorological Day)
」です。世界気象機関(WMO)が、発足10周年を記念して1960(昭和35)年に制定しました。

 WMOが発足する10年前の1950(昭和25)年3月23日に、世界気象機関条約が発効しました。加盟諸国の気象観測通報の調整、気象観測や気象資料などのデータ・情報交換を行っています。この機関には、日本は1953(昭和28)年に加盟しました。

 因みに6月1日は「気象記念日」で、東京気象台(現在の気象庁)が1884年に制定しました。

 1875年6月1日に、東京・赤坂葵町に、日本初の気象台「東京気象台」が設置され、東京で気象と地震の観測が開始されました。ながらく「気象台」と呼んでいましたが、1956年に「気象庁」として、運輸省(現在の国土交通省)の外局に昇格しました。

 気象庁のサイトによると、その目的は下記のように記述されています。

気象庁の任務

 気象庁は的確な気象情報を提供することによって、自然災害の軽減、国民生活の向上、交通安全の確保、産業の発展などを実現することを任務としています。また、世界でも先進的な気象機関として、気象業務に関する国際協力も行っています。

 このため、気象庁は、常に最新の科学技術を駆使することによって気象業務の技術基盤を確立し、利用目的に応じた分かりやすい気象情報の作成・提供を行っていきます。また、気象庁のサービスに対する利用者の皆様からの声を基に評価を行い、技術開発を進め、新しいサービスを計画・実現していきます。

  図 世界気象機関(WMO) ←クリック

 

■ 所得税法導入

 所得税法(しょとくぜいほう)は、現在は、昭和40年3月31日法律第33号により、広義の所得に対する税のうち、個人の所得に対する税金について定めた日本の法律です。

 日本は租税法律主義を採っており、所得税については、主に所得税法で定められています。しかし、租税特別措置法による修正が採られていることも多いです。

 日本の所得税は、1887年に、所得税法(明治20年3月23日勅令第5号)により導入されました。

 導入の当初は、所得金額300円以上の高額所得者のみを納税義務者としていたことから、名誉税とも呼ばれていました。

 日中戦争(1937年-1945年)・太平洋戦争(1939年-1945年)などの第二次世界大戦に突入することで多額の税収が必要になり、税制も戦時体制に組み込まれることになりました。

 1945年、日本は第二次世界大戦で敗戦し、GHQの統治下になりますと、日本国憲法の制定に伴い、所得税法 (昭和22年3月31日法律第27号)として、全面的に改正されました。

 申告納税制度の導入や総合課税への一本化が行われ、今日の所得税の原型ができあがり、1965年に、所得税法は全面的に改正されました。

 1988年には、「所得課税を軽減し、消費に広く薄く負担を求め、資産に対する負担を適正化する」と、所得税の考え方が抜本的に改正されたことは記憶に新しいです。


■ その他
◇ 準備中


【経営コンサルタントの独り言】

■「いじめられっ子」ではなく「いじめ被害者」

 たまたまいじめをテーマにしたテレビ番組を観る機会がありました。

 40代、50代になっても、子供の頃のいじめがいまだに尾を引いている人がいらっしゃるようです。

 その人達の生活というのは、われわれの想像を絶するところがあると思います。


 そのような人達に手を貸している先生が登壇していました。

 そのような人は、真面目な人が多く、そのために自責の念が強すぎるようです。

 自分が何かを言われるのは、自分が悪いからだ、と自分を責めてしまうようです。

その先生からの「あなたは被害者であって、あなたは悪くない」というひと言で、ある女性は立ち直ることができるようになったと述懐していました。


 その先生は、「いじめられっ子」ではなく、「いじめ被害者」と言うべきだともおっしゃっていました。


 私達は、相手を傷つけようと思っているわけではないのに、相手を傷つけてしまっていて、自分は気がつかないということがあるように思えます。

 言ってしまってから、言い過ぎたと気がつくこともあります。

 いじめ加害者がしていることのインパクトは、いじめ被害者にとっては、いじめ加害者側が想像するより遙かに大きいです。

 いじめ被害者に対して、私自身、もっともっと理解を深め、配慮をすべきだという反省をする機会が多くなりました

【経営コンサルタントの独り言】

■ 煩悩に満ちて彼岸を明けました


 お彼岸があけました。

 中日を挟んで7日間がお彼岸です。

 改めて「彼岸」という言葉を考えてみました。

 煩悩や迷いに満ちた現世を「こちら側の岸」という意味で「此岸」(しがん)というのだそうです。

 それに対して、煩悩を脱した悟りある人の地は、「向う側の岸」という意味の「彼岸」と呼ばれます。

「七十にして、心の欲するところに従がって矩(のり)を踰(こ)えず」

 まだまだ煩悩に満ちていますので、心の欲するままですと、「矩」を超えるばかりです。
 あな恥ずかしや!

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■ 西行(さいぎょう)

 2012年NHK大河ドラマ「平清盛」で清盛の友人として俗名佐藤義清(さとうのりきよ)として、西行が登場しました。鳥羽院の北面武士として奉仕していたので、清盛との交流もあったでしょうが、現実にはその期間も短かったようで、清盛と昵懇にしていたという記録は定かではないようです。

 和歌に通じた人として知られていました、保延6年(1140年)23歳で出家して一時は円位を名のっていました。

 出家後は心のおもむくままの生活をし、あちこちに庵を持ちました。また弘法大師の遺跡巡礼も兼ねて諸国を巡る漂泊の旅にも出ました。日本各地に、多くの和歌を残しています。

 しきたりや伝統にとらわれず個性の歌人という説があるが、正しい見方ではないようです。院政期の歌風醸成の一人で、藤原俊成とともに「千載集」の中の一人として見るべき人のようです。

 東大寺再建の勧進のために奥州藤原氏を訪れる途上で、鎌倉に立ち寄り源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されています。

 享年73歳、文治6年2月16日(1190年3月23日)没。


【Wikipedia】 西行(さいぎょう)
 元永元年(1118年) - 文治6年2月16日(1190年3月23日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人。 父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女。同母兄弟に仲清があり、子に隆聖、女子(単に西行の娘と呼ばれる)がある。俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。出家して法号は円位、のちに西行、大本房、大宝房、大法房とも称す。
 勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)『山家心中集』(自撰)『聞書集』、その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と目される。


■ 北大路 魯山人 いろいろな顔を持つ気むずかしい芸術家

 きたおおじ ろさんじん
 1883年(明治16年)3月23日 - 1959年(昭和34年)12月21日

 篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持つ、日本の芸術家で、本名は、北大路 房次郎(きたおおじ ふさじろう)といいます。

 魯山人は、母の不貞によりできた子で、父は割腹自殺、生後すぐに里子に出され、養家を転々としました。この鬱屈は、終生払われることはなく、人格形成に深甚な影響を及ぼしたといわれています。

 傲岸(ごうがん)・不遜・狷介(けんかい)・虚栄などの悪評がつきまとい、毒舌でも有名で、横山大観をはじめとする戦前を代表する芸術家・批評家などを容赦なく罵倒しました。

 いっぽうで、その天衣無縫ぶりは、吉田茂などから愛されるという人物でもありました。

 その気難さは、お手伝いさん曰く「風呂から上がると、決まった時間にキンキンに冷えたビールがさっと出てこないと満足できない方だった。それが出来ずに叱られ、辞めていったお手伝いさんを何人も見た」という話も残っているほどです。


【詳細】
 1883年(明治16年)、京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂に生まれました。
 ある日、京都の奉公先の使い走りの最中、ある仕出し料理屋の行灯看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われました。その絵を描いたのは竹内栖鳳でした。
 養父の木版の手伝い始め、扁額や篆刻など後に勇躍することになる分野の基礎的な感覚を身につけていきます。展覧会で受賞し、それを契機に、町書家・岡本可亭(漫画家岡本一平の父、洋画家岡本太郎の祖父)の内弟子となりました。
 その後、ソウルなど当時の朝鮮内を旅し、そこで働いたり、上海に渡ったりしました。その時に、書家・画家・篆刻家として当代一と名の高かった呉昌碩に会う機会がありました。
 半年後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境ができ、敬愛する竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶いました。この頃、北大路魯山人の号を使い始めます。
 その後、京都・金沢などを転々とし、食器と美食に対する見識を深めていきました。
 1925年(大正14年)に、東京・永田町の「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」の会員制高級料亭の顧問となりました。しかし、出費の多さなどから追放されてしまいます。
 戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすしますが、1946年(昭和21年)に、銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博し、知名度を上げたのです。
 1954年(昭和29年)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際にパブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問しています。1955年(昭和30年)には、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されたのですが辞退しています。(【Wikipedia】を基に作成)


 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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