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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

 

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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 【今日の写真】 花の女王「ラン」 国際らん展より 
  ランは、英語でOrchidといいます。ランは、熱帯の湿潤地に生息する種類が多いのですが、直射日光には弱いのです。夏場の管理が難しいといわれています。
今日は何の日    2月18日

■ 冥王星の日

 1930年のこの日、アメリカ・ローウェル天文台のクライド・トンボーが、太陽系第9惑星である冥王星を発見しました。

 大きな楕円軌道を持ち、黄道面から大きく傾いているのが特徴です。

 内側の天王星の運行の乱れから別の惑星があることは、それ以前より解っていました。時間差で撮影した写真を比較することからの大発見です。

 しかし、2006年に「惑星」の定義が改訂され、冥王星は惑星ではなくなってしまいました。

 半径が月よりも小さく、15等星という暗い星であることから、ギリシア神話の「冥府の神」の名を取って「プルート:pluto」と名付けられました。

 ちなみに、ミッキーマウスの黄色い犬のペットの名前は、「プルート」です。


■ 嫌煙運動の日

 1978(昭和53)年2月18日に、東京・四谷で「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立されました。

 それまで「嫌煙」という言葉がありませんでした。「日照権」という言葉にヒントを得て「嫌煙権」という新語でアピールしたことにより、嫌煙運動が全国に広まる景気となりました。

 毎朝、近所を散歩しますが、人通りが少ないせいか、早朝に出勤する人が歩行喫煙をしています。喫煙者の呼気は5分間くらい喫煙の臭いがすると言われます。煙が出ていなくても、周囲の人に迷惑をかけていることを認識して欲しいですね。

 因みに「世界禁煙デー」は5月31日です。

■ その他
◇ 岡山西大寺会陽裸祭(第三土曜日)  
◇ 横手かまくら(第三土曜日~日曜日)  
◇ 犬っこまつり(第三土曜日~日曜日)  
◇ 常光国師忌


【経営コンサルタントの独り言】

■ 気がつかずに殺人を犯しかねない


 日本で喫煙が問題視されるようになったのは、1970年代です。

 東京・四谷で「嫌煙権確立をめざす人々の会」が設立されました。


 毎朝、近所を散歩しますが、人通りが少ないせいか、早朝に出勤する人が歩行喫煙をしています。

 喫煙者の呼気は、喫煙後、5分間くらいは周囲に受動喫煙の影響を残しているといわれています。

 煙が出ていなくても、周囲の人に迷惑をかけているのです。

 喫煙をする人が近づきますと、まず臭いに悩まされます。

 喘息患者は、次に咳が出てきます。

 健康な人には、理解いただけない反応をしているのです。


 近年、喫煙者が住みづらくなってきて、蛍族なる人達もたくさん見られます。

 喫煙権を主張する人も出ています。


 年間数千人の人が、喘息で亡くなっていることをご存知でしょうか?

 たばこの煙は、重度の発作を起こす危険性が高いのです。

 その時には、救急車を呼ぶように、医師から患者には言われているのです。

 それほど、喫煙による影響は大きいのです。

 喫煙により、殺人を起こす危険がことを認識して欲しいです。

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■【きょうの人】 マーク・トウェイン

 1885年2月18日に、マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」が刊行されました。世界ではじめたタイプライターで書かれた小説であると高校の英語の教師から聞いた記憶があります。(真偽の程は定かでありません)

 マーク・トウェインというと「トム・ソーヤーの冒険」をイメージする人も多いと思いますが、ハックルベリーはトムの親友です。

 この小説は、俗語というか方言の会話が多く、当時この本を原書で読み始めて、言葉がわからない、辞書を引いても出ていないなどでギブアップしたことを記憶しています。


■ 伊藤圭介

 いとう けいすけ
 享和3年1月27日(1803年2月18日)-明治34年(1901年)1月20日

 幕末から明治期にかけて活躍した理学博士で、男爵の爵位を持っていました。

 享和3年(1803年)、町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に生まれ、文政3年(1820年)には、若くして町医の資格を得て開業しました。

 文政4年(1821年)、京都に遊学し、蘭学を学び、文政10年(1827年)には、長崎にて、シーボルトより本草学を学びました。翌年、長崎から名古屋に帰る際にシーボルトよりツンベルクの『日本植物誌』を受け取り、これの翻訳をし、文政12年(1829年)に、『泰西本草名疏』を刊行しました。

 明治3年(1870年)、東京に移り、明治政府に仕えました。同14年(1881年)、東京大学教授に任ぜられ、同21年(1888年)、日本初の理学博士の学位を受けました。

 また初代の東京学士会院会員となったり、学者として初の男爵を授けられたりしています。



■ 始皇帝 ハレー彗星発見

 しこうてい
 紀元前259年2月18日- 紀元前210年

 秦の始皇帝は、古代中国の戦国時代の秦の第31代王(在位:紀元前247年- 紀元前221年)です。

 秦王として即位したのち、紀元前221年に中国史上初めて全ての国の統一を成し遂げます。歴史上最初となる新たな称号「皇帝」に即位(在位:紀元前221年-紀元前210年)し「始皇帝」と名乗りました。

 名は、嬴政または趙政で、現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と呼称されます。

 統一後は、重臣の李斯らとともに主要経済活動や政治改革を実行しました。

 従来の配下の一族等に領地を与えて領主が世襲して統治する封建制でした。彼の改革では、中央政権が任命・派遣する官僚が治める郡県制へと全国的な転換(中央集権・官僚統治制度)を行いました。

 国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備・交通規則の制定なども行っています。

 万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設など、後世に残ることになった大事業はよく知られています。

 法(法家)による統治を敷き、批判する儒者・方士や書物の弾圧を行った焚書坑儒は有名です。この時に重要は文書が灰に化したのではないでしょうか。

 紀元前210年に旅の途中で49歳で急死するまで君臨しました。

 特記すべきこととして、あまり知られていませんが、『史記』によりますと、秦始皇本紀に、「ハレー彗星出現」と、確実で最も古い記録があることです。


■ 上杉 謙信 生誕 戦国武将、関東管領

 うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)
 享禄3年1月21日(1530年2月18日)(グレゴリオ暦1530年2月28日)-天正6年3月13日(1578年4月19日)

 戦国時代の越後国の大名で、後に山内上杉家16代当主となります。武田信玄と並ぶ、戦国時代でも屈指の戦上手といわれ、その神懸った戦績から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されました。

 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)でした。

 1561年(景虎31歳)の折に、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られました。「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられて、上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名したのです。

 上杉氏が、世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継ぎました。

 後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱として「輝」の1字を受けて、最終的には輝虎と名乗りました。謙信は、さらに後に称した法号です。

 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させたのですから、単なる戦国武将ではなかったのです。

 他国から救援を要請されますと、黙っていられない聖覚で、秩序回復を掲げ、幾度となく出兵しました。

 闘った相手は、武田信玄だけではなく、北条氏康や織田信長、また、越中一向一揆にも遭遇しています。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られています。

 さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へと勢力を拡大しましたが、48歳で死去しました。

 謙信には実子がなく、死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発しました。

 「道理をもって誰にでも力を貸す」と、『白河風土記』に述べられています。私達経営コンサルタントの心得の一つに繋がります。

 謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれましたが、本当に塩を送ったのかどうかの真偽の程は解明されていないようです。

■ 中山 みき(美伎) 天理教教祖

 なかやま みき
 寛政10年4月18日(1798年6月2日)- 明治20年(1887年)2月18日)

 日本の宗教家として天理教教祖、明治21年(1888年)11月1日に、出版された「みかぐらうた」では、著者は「奈良県平民 故中山美支」となっています。現在の天理教では「中山みき」が公式表記とされています。

 天理教では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称しています。

『稿本天理教教祖伝』など多くの資料で、幼少の頃からの慈悲深さと同情の心の篤さ、信仰熱心といった記述が多く見られます。

 文化7年9月15日(1810年10月13日)に、同じく津藩領・庄屋敷村の庄屋・中山善兵衛に嫁ぎます。天理教では、その教義においてこの中山家を含む地所が人間世界創造に由来があるとして、この場所を「元のやしき」あるいは「お屋敷」と呼んでいます。

 天保9年10月23日(1838年12月9日)、長男・秀司の原因究明の足の病気にかかり、修験道当山派内山永久寺の配下の山伏に祈祷を依頼しました。その時、憑祈祷の依り坐が不在だったために、みきが依り坐、加持代となりました。この時、みきの様子は一変し、まったく別人になったかのような、著しい変化があり、いわゆる憑依状態に入りました。

 このことを天理教では「月日(神)のやしろ」に召される、と呼んでいて、天理教が誕生することになります。
 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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