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仏像の起源

■ 仏像を理解する基本

 仏像とは、仏教の信仰対象である仏の姿を表現した像のことで、昨今では、宗教的な色彩だけではなく、美術的な「芸術作品」として、仏像を愛でる人が多くなってきました。

 その仏像を、後者の色彩を重視して、仏像を理解することを目的として、記述してまいります。しかし、そうは言いましても、仏教の理解なしには、仏像を語ることはできないと思います。

 そこで、ここでは、仏像を理解するという観点で、仏教の知識についても触れてまいります。

 「(仏陀、如来)|の原義は「目覚めた者」で、「真理に目覚めた者」「悟りを開いた者」という意味が込められています。

 原始仏教など、初期におきましては「仏」とは仏教の開祖ガウタマ・シッダールタ(釈迦)を指しました。しかし、大乗仏教の発達とともに、弥勒仏、阿弥陀如来などの様々な「仏」の像が造られるようになってきたのです。

 「仏像」とは、本来は「仏」の像、すなわち、釈迦如来、阿弥陀如来などの如来像を指します。しかし、一般的には、菩薩像、天部像、明王像、祖師像などの仏教関連の像全般を総称して「仏像」ということが多いです。

 広義には、画像、版画なども含まれますが、一般に「仏像」という時は、立体的に表された丸彫りの彫像を指すことが多いです。後者は、「仏画」などと区別されます。

 彫像の材質は、木造だけではなく、金属製、石造、塑造、乾漆造など様々です。また、仏像を専門にする彫刻家は「仏師」と呼ばれます。(【Wikipedia】を基に作成)

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■ 仏教の起こりと社会的背景

 釈迦が誕生した頃のインド社会では、バラモン教が主流でした。そのバラモン教では、像を造らなかったようです。バラモン教以外にも諸教がありましたが、いずれも像を造って祀るという習慣はありませんでした。したがって原始仏教におきましても、このような社会的背景の影響を強く受けていたでしょう。

 原始仏教は、宗教的側面よりも自然の摂理を基にした哲学的側面が強かったようで、仏像には結びつきにくいという側面もあります。

 また、釈迦は「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、釈迦本人は、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかったと推定されます。

 このようなことから、初期仏教においては仏像というものは存在しなかったといえます。

■ 仏像誕生初期

 釈迦が入滅し、時代を経るに従い、仏の教えを伝えるために図画化という方法が採られるようになってきました。

 「百聞は一見にしかず」といいますように、仏陀となった偉大な釈迦の姿を、言葉だけでは充分に表現できないことが痛感されたのでしょう。人々は、釈迦の象徴としてストゥーパ(卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの))や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹仏舎利など、形がある物を礼拝するようになりました。

 インドの初期仏教美術として、仏伝図(釈迦の生涯を表した浮き彫りなど)が多数あります。しかし、それらには、釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹、台座などによってその存在が暗示されるだけでした。

■ 仏像の誕生

 既述の通り、仏像が造られる以前、釈迦牟尼(しゃかむに)の存在は法輪・菩提樹・仏足石などによって象徴的に表現されていました。

 しかし、西北インドのガンダーラ地方と北インドのマトゥーラ地方(現在はパキスタン)に仏教が伝わりますと、仏像が盛んに造られるようになりました。

 このことから、この2つの地域が、仏像の起源と考えられるようになりました。ただし、ガンダーラとマトゥラーのいずれにおいて仏像が先に造られたかについては、長年論争があり、今日でも決着を見ていません。(【Wikipedia】を基に作成)
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■ ガンダーラ

 仏像を作り始めた地として、2か所ありますが、その一つがインドの北西部にあるガンダーラ地方です。

 ガンダーラでは、インド文化を基盤に、ヘレニズム文化の影響を受けて、初期にはギリシャ的な風貌を持つ仏像が造られました。

 しかし、次第に釈迦の修行時代を示す、王冠菩薩や、弥勒(みろく)菩薩を示す束髪(そくはつ)菩薩などの菩薩像が生まれ、それを契機に、さまざまな仏像が出現するようになりました。

  ガンダーラの仏像の特徴は、額・眉間に白毫(びゃくごう)があり、背後に丸い円盤のような光背を付けているなどが挙げられます。日本の寺院で一般的に見られるような容姿とは異なり、西欧的な風貌をしているのが一般的です。

 また、ガンダーラでは仏塔の周囲に仏像を安置する仏龕(ぶつがん)が作られるようになります。時代の経過とともに、中央アジアに仏教が伝わるにつれて、仏塔と仏像を祀る祠堂(しどう)が誕生するようになりました。そして、今日のような仏像崇拝がはじまり、やがて仏塔崇拝よりも興隆するようになりました。

 ガンダーラの仏教美術は、仏塔や石窟寺院とともに、ガンダーラから中央アジアを経由して東アジアへ伝えられたのです。

■ ガンダーラ仏教美術の時代背景

 紀元前330年頃に、アレクサンドロス3世(大王)の遠征軍がペルシャを越えて、北インドまで制圧しますと、ガンダーラ地方にも、ギリシャ文化が持ち込まれました。

 その後も紀元前2世紀には、グレコ・バクトリア王国がギリシャ人の支配を受けるようにもなり、西方文化の流入は続きました。

 このような背景から、ガンダーラの仏教美術は、ギリシャ美術やペルシャ文化に、仏教が融合することになったといえます。

 元来、仏陀像は釈迦の像に限られていたのですが、仏教の展開に応じて、色々な像が生まれるようになりました。

 たとえば、光背はペルシャ文化の影響を受けたとみられます。仏教は、ギリシャ文化の影響からか、偶像崇拝的性格を持つようになってきたのです。ガンダーラにおいても銘文から、仏像が、弥勒菩薩、阿弥陀如来、観音菩薩など、いろいろな形で現れてきたのです。(【Wikipedia】を基に作成)

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■ マトゥラー

 仏像を初めて造ったというのは、ガンダーラ地方ともう一か所の説として北インドのマトゥラー節が説があります。

 仏像が盛んに造られるようになったのは、紀元後1世紀頃から、インドを支配していたクシャーナ朝の時代であることはほぼ定説となっています。

 クシャーナ朝のカニシカ王は、釈迦の教えに触れて仏教の保護者となりました。王は自国の貨幣に釈迦像と仏陀の名を刻印するほどでした。また当時の都であったプルシャプラ(現パキスタン、ペシャワール)の遺跡からは、クシャーンの王(カニシカ王とされるが異説もある)の頭上に釈迦が鎮座する図柄の舎利容器なども発見されています。

 マトゥラーの仏像は肩がいかり肩で力強く、量感に富む仏像です。これは、さらに洗練され、グプタ朝時代に完成された仏像に引き継がれていきました。(【Wikipedia】を基に作成)

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