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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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今日は何の日      12月19日
■ 日本人初の南極点到達 

 1968年12月19日に第9次越冬隊(村山雅美隊長)が、日本人として初めて南極点に到達しました。日本人が次第に世界的に認められ始めた頃で、私は商社マンとして日本の発展に寄与したいと考え始めていた頃です。

 村山氏は、私が高校生の時に高校に講演に来てくれました。真夏の暑い日でしたが、氏の薄いワイシャツを通してランニングシャツが透けて見えたのが印象的です。

 第一次越冬隊の副隊長として活躍されたときの話が中心で、機材のない中での越冬隊の苦労は筆舌に尽くせないようであったとお話されたことを今でも覚えています。

 私の中学時代の後輩である巻田氏が、その後越冬隊に加わり、南極も遠くないような気がします。弊社の社員であり、日本経営士協会の登録経営士でもある佐々木紀彦先生は、南極観光に二度も行っています。
 

 日本人初飛行の日

 1910(明治43)年12月19日に、東京・代々木錬兵場(現在の代々木公園)で、徳川好敏工兵大尉が軍公式の飛行試験で日本で初めて飛行機により空を飛ぶことに成功しました。飛行距離は3km、滞空時間4分という記録が残されています。

 ライト兄弟が、ライトフライヤー号で最初に飛んだのが、1903年12月17日のこと、12秒間で120フィート(約350m)と言いますから、その7年ごとはいえ、素晴らしい記録ですね。

 徳川好敏(とくがわよしとし、1884〜1963)は、その苗字から推測できますが、清水徳川家第8代当主でした。1884年に伯爵徳川篤守の長男として東京府(現東京都)に生まれましたが、経済的な問題から華族の体面を維持できないとして爵位を返上したことでも知られています。

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 【経営コンサルタントの独り言】

◆ 人の生き方は如何にあるべきか、それを経営に活かすには


 混濁した世の中を生き抜く術・視点は何処にあるのかを私なりにお伝えする事ができればと願いつつ、企業経営の心髄に論語の精神が重なっている事に気付かされ、渋沢栄一に共鳴し、論語が私の愛読書の一つとなっています。

 このようにおっしゃっているのは、経営コンサルタント業界の開拓者・日本経営士協会の理事長であります藤原先生です。

 論語は、人生の生き方に大きな示唆を与えるだけではなく、企業経営のあり方やそこでの人との接し方の参考になることが多いのですね。

 藤原先生は、それを私達に教えてくださっています。

 今回は、私の好きな部分でもあり、以前にもご紹介したのですが、多数の方からアクセスを戴きました。

 まだ、ご覧でない方は、是非、参考になさってください。

  http://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/080dcbfb77013b3f7c223a00c992c953

【きょうの人】


■ 直江兼続 「愛」の兜で米沢藩家老として尽力


 なおえ かねつぐ
 永禄3年(1560年)−元和5年12月19日(1620年1月23日)


 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将で、米沢藩(主君 上杉景勝)の家老を務めました。

 NHK大河ドラマでも、その兜の立物「愛字に端雲の立物」は有名です。また、兼続は、お船の方を最後まで愛し側室を迎えず正室だけを妻に迎えたことでも知られています。


 兼続については、資料も乏しく、諸説入り混じっています。

 永禄7年(1564年)に上田長尾家当主の政景が死去した時、上杉輝虎(謙信)の養子となった政景の子・顕景(後の上杉景勝)に従って春日山城に入りました。仙桃院(謙信の実姉で景勝の母)の要望を受け、景勝の小姓を経て、側近として仕えました。

 武田家滅亡の折には、信濃衆との取次を行うなどから頭角を現し、豊臣時代には、内政・外交の取次のほとんどを担うようになり、家老として景勝との二頭政治に近いものが行われました。

 豊臣政権下で、当時戦乱で疲弊した越後を立て直そうと兼続は農民に新しい田畑の開墾を奨励し、新田開発が進み、それが現在の「米所新潟」の礎となりました。兼続の施策は越後に謙信の時代に劣らぬ繁栄をもたらし、後に上杉鷹山が米沢藩建て直しの参考に繋がったといわれています。

 秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封された際、兼続には出羽米沢に6万石の所領が与えられました。

 関ヶ原直前、兼続が景勝に無断で年貢を持ち出し、堀秀治が上杉家謀反を家康に訴えました。家康の命を受けて上杉家との交渉に当たっていた西笑承兌に景勝が送った書簡が、有名な「直江状」です。これが、関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐を家康に決意させたとされていますが、偽文書とも、大幅改竄された文書ともいわれています。

 景勝が五大老の一人として秀吉方で闘った上杉家ですが、関ヶ原後、慶長6年(1601年)、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪しました。この時に罪が赦され、景勝は、兼続の所領であった出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉家の存続ができました。

 その後は徳川家に忠誠を誓い、兼続は重光と改名、家老として、新たな土地の開墾を進めるために治水事業に力を入れるなど、藩政改革を進めました。



■ ベーリング,ヴィトゥス・ヨナセン 探検家

 Vitus Jonassen Bering
 1681年8月 − 1741年12月19日(ユリウス暦12月8日)

 デンマークのホーセンス生まれのロシア帝国の航海士で、探検家として知られています。

 アムステルダムの学校を卒業し、東インドへの旅の後、ロシア海軍に入隊、大北方戦争ではバルチック艦隊(バルト艦隊)の一員として戦いました。また、オスマン帝国との戦争でも闘っています。

 2回のカムチャツカ探検を率いて、ユーラシア大陸とアメリカ大陸が陸続きではないことを確認しました。また、アラスカに到達し、アリューシャン列島(アレウト諸島)の一部を発見しました。

 ベーリングの名にちなんだものに、ベーリング海、ベーリング海峡、ベーリング島、ベーリング地峡などがあります。


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 内閣府認証特定非営利活動法人・日本経営士協会理事長
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