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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

35年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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今日は何の日      12月12日
■ 漢字の日 

 「いい(1)じ(2)いち(1)じ(2)」の語呂は「良い字一字」に通じることから日本漢字能力検定協会(漢検)が1995(平成7)年に制定しました。

 毎年、その年の世相を象徴する「今年を表現する漢字」を全国から募集し、この日に京都の清水寺で発表されることはご存知の通りです。

 例えば2011年は暑い夏が長く続きました。その年の世相を表す漢字は「暑」と決まりました。異常気象だけではなく、チリ鉱山事故など、確かに暑いことが多かったからです。

 最近は、「暑い」と「厚い」のアクセントの区別ができていない人が多すぎますね。アナウンサーですらこの区別ができていないのは、アナウンサーがアマになってしまったと言っても過言ではないと思います。

 プロはプロとしての仕事をすべきです。

 NHKのアナウンサーはアクセント事典を持っていますが、それの運用が甘くなっているのではないでしょうか?

 中学生になった折に、英語の先生が、「イギリスのBBC放送のアナウンサーの発音をよく聴きなさい」と言ってくれました。日本語の先生が、「NHKのアナウンサーの発音をまねなさい」と自信を持って言えるでしょうか?

 大宅壮一先生が「1億総白痴」ということをおっしゃいましたが、俗悪テレビ番組がはびこり、そればかりを見ていては白痴化してしまうという懸念を表した言葉です。テレビのスイッチを入れるとそれが一層加速化されているようです。最近は、NHKも民放にまねて白痴加速新番組を増やしています。

 バッテリーの日

 1985(昭和60)年に「カーバッテリーの日」というのが日本蓄電池工業会(現在の電池工業会)により制定され、1991(平成3)年に「バッテリーの日」と改称されました。

 「バッテリー」という言葉は、電池を指すだけではなく野球でも使われます。ピッチャーを表す守備位置番号が「1」、バッテリーを組む相手方であるキャッチャーが「2」であることから、12月12日が選ばれました。

【経営コンサルタントの独り言】

◆ バッテリーが人間の命に関わる

 リチウムイオン電池の開発に貢献した旭化成名誉フェローの吉野彰氏が、2019年のノーベル化学賞を受賞しました。


 破竹の勢いできた韓国サムスンが、世界的な経済停滞の影響を受けて成長が鈍化してしまいました。

 そこに追い打ちをかけたのがタブレットの電池不良問題です。

 サムスンすべての製品のバッテリーが不良ではないのですが、イメージダウンというのは怖いもので、サムスン製品の売上が落ちて、業績回復には多大なる経営資源を投資します。


 飛行機上で発火するのも怖いですが、宇宙を周回するISSの電池となると即生命に危険が迫ってきます。

 2016年12月に、コウノトリがISSに向かって日本製の電池や水などの物資を運びました。

 日本製品の安全性が再び見直されてきていますね。

 


■ 福沢諭吉生誕

 福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)は、天保5年12月12日(1835年1月10日)に中津でうまれ、明治34年(1901年)2月3日に亡くなりました。

 諭吉という名の由来は、儒学者でもあった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に、彼が生まれたことにあります。

 武士(中津藩士のち旗本)、蘭学者、著述家、啓蒙思想家、教育者ですが、慶應義塾の創設者であることはよく知られています。慶應義塾だけではなく、専修学校(後の専修大学)、商法講習所(後の一橋大学)、神戸商業講習所(後の神戸商業高校)、土筆ヶ岡養生園(後の北里研究所)、伝染病研究所(現在の東京大学医科学研究所)の創設にも尽力しました。

 ジャーナリストとしての一面も持ち、大隈重信、伊藤博文、井上馨という政府高官3人と会見し、公報新聞新聞『時事新報』を創刊することになりました。東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長も務めています。

 安政元年(1854年)、19歳で長崎へ遊学して蘭学を学んだり、大阪適塾で頭角を現し、江戸に出てからは蘭学塾の講師を務めたりしています。この蘭学塾では、佐久間象山の影響も受け、洋式砲術の教授を受けたりしています。

 諭吉が横浜に出かけた折、オランダ語が全然通じないことから、英語の習得に力を入れたという有名な逸話があります。

 咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村摂津守の従者として、勝海舟らと咸臨丸に乗り、渡米しています。

 文久元年(1861年)に中津藩士、土岐太郎八の次女・お錦と結婚し、その年の冬、竹内保徳を正使とする文久遣欧使節が欧州各国へ派遣されるとき、翻訳方としてこれに同行することとなりました。

 これらの功績が認められ、昭和59年(1984年)に一万円紙幣表面の肖像に採用されていることも知られています。

 明治31年(1898年)に脳溢血で倒れ、明治34年(1901年)脳溢血が再発し、2月3日に東京で、享年67(満66歳没)の生涯を閉じました。7日には衆議院が「衆議院は夙に開国の説を唱へ、力を教育に致したる福沢諭吉君の訃音に接し茲に哀悼の意を表す」という院議を決議しています。葬儀では三田の自邸から麻布善福寺まで1万5000人の会葬者が葬列に加わったという記録が残っています。諭吉の功績や人徳が偲ばれます。(【Wikipedia】をもとに作成)


■ 一休宗純 滅

 いっきゅうそうじゅん
 明徳5年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日(1481年12月12日)

 室町時代の臨済宗大徳寺派の僧で、誰もが知っている説話のモデルとしても知られています。

 出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されています。

 母親の出自は不明ですが、皇胤説に沿えば後小松天皇の官女で、その父親は楠木正成の孫と称する楠木正澄と伝えられています。三ツ島(現・大阪府門真市)に隠れ住んでいたという伝承があり、三ツ島に母親のものと言われる墓が現存します。

「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、華叟より一休の道号を授かりました。

 正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位しましたが、この即位には一休の推挙があったといわれています。

 戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。

 名言「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」

 巷では、「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」といいますが、やはり[門松]がただしいようです。


■ 関山慧玄忌

 かんざんえげん
 建治3年(1277年)−正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日)

 鎌倉時代末期から南北朝時代、信濃国に生まれた僧侶で、朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられました。また、明治天皇からは「無相大師」と追諡されています。

 1307年に、南浦紹明の鎌倉建長寺に入り、慧眼(えげん)の法名を授かり、鎌倉に滞在した後に帰郷しました。

 京都大徳寺に遷って宗峰に師事し、1329年に関山の号が与えられ、慧玄と改名しました。1342年に関山は妙心寺開山となりました。

 その禅風は厳格で、その生活は質素をきわめ、「枯淡な禅風」をもって修禅に専念したといわれています。

 関山には他の高僧のような語録や著書はなく、生前に描かれた肖像(後世に作成された物はある)も遺筆もほとんど残されていません。2006年に、臨済宗妙心寺派の寺の蔵より肖像画が発見されましたが、確認されていません。

 妙心寺(みょうしんじ)は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院で、山号を正法山といいます。本尊は、釈迦如来です。開基(創立者)は花園天皇で、寺紋は花園紋(妙心寺八つ藤)です。

 日本の臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺が妙心寺派で占めています。三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭があり、一大寺院群を形成し、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれているほどです。



■ 公海 生誕 天海僧正の後継者

 こうかい
 慶長12年12月12日(1608年1月29日) − 元禄8年10月16日(1695年11月22日)

 江戸時代前期の天台宗の僧で、展開の弟子。父は花山院忠長、母は本願寺教如の娘で、天海の没後に日光山貫主を継承しました。

 1620年(元和6年)天海僧正の門に入り、1643年(寛永20年)に、天海が没するとその法をついで東叡山寛永寺に住し、天台宗の総本山である比叡山・徳川家康を祀る東照宮のある日光山を管理下に置いて天台宗一宗を管領するようになりました。

 1647年(正保4年)に、僧正に任じられ、翌1648年(正保5年)には大僧正に就任しました。

 天海の遺志をつぎ山科(現在:京都市山科区)毘沙門堂を復興しています。まさに、師展開を尊敬する功績ですね。


■ 覚鑁 (興教大師) 没

 かくばん/こうぎょうだいし
 嘉保2年6月17日(1095年7月21日)− 康治2年12月12日(1144年1月18日)

 平安時代後期の真言宗の僧で、真言宗中興の祖であり、新義真言宗の始祖でもあります。

 諡号を興教大師(こうぎょうだいし)といいます。

 肥前国藤津庄(現:佐賀県鹿島市納富分 新義真言宗大本山誕生院)に生まれました。父は伊佐平治兼元、母は橘氏の娘で、幼名は、弥千歳といいました。

 平安時代後期の朝野に勃興していた法然らの念仏・浄土思想を、真言教学において、いかに捉えるかを理論化した「密厳浄土」思想を唱え、「密教的浄土教」を大成しました。

 即ち、西方浄土教主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来という普門総徳の尊(全ての仏徳を備えた仏)から派生した、別徳の尊であるとしています。

 空思想を表した『月輪観(がちりんかん)』の編者として知られています。また、日本に五輪塔が普及する切っ掛けとなった『五輪九字明秘密釈』の著者でもあります。


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