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経営者・管理職とコンサルタント

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今日は何の日 話材からヒントと気づきを

40余年の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴40余年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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今日は何の日      4月3日
 【今日の写真】  
 【今日の写真】 春の京都 曼殊院

 曼殊院は、洛北に位置しています。曼殊院門跡というのが正式な表現で、皇室一門の方々が住職をされていたことから「門跡」と呼ばれています。
 遠州の枯山水庭園は、鶴島と亀島があります。大書院に続く庭には霧島つつじが植えられており、枯山水との調和が素晴らしいです。
 
曼殊院  カシャリ!ひとり旅 京都府

Wikipedia

 曼殊院(まんしゅいん)は京都市左京区一乗寺にある天台宗の仏教寺院である。山号はなし。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は是算(ぜさん)である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。近畿三十六不動尊第十七番。

■ 日本橋開通記念日 

 日本の道路の起点は「日本橋」ですが、残念ながら大阪の電気街である日本橋とは違い、東京にあります。日本橋は、江戸時代から現在まで日本の道路交通の中心と言えます。

 この橋の中央に、国道の起点となる「日本国道路元標」というものが設置されているのです。(自分で撮った写真が見つからず、アップできません)

 1911年4月3日までは、北斎の絵にあるように木製の橋でしたが、石橋に架け替えられました。東京の人にはおなじみですが、石造二連のアーチ橋です。

 残念なことに、今日では高速道路が上を走っていて、景観は良くありません。江戸っ子気質の人が周辺に多いことから、彼らの発案で高速道路は地下に潜る計画ができました。

  広重の東海道五十三次 ←クリック

■ みずの日

 4月3日は「し(4)み(3)ず」で「しみず」すなわち「清水(しみず)」の語呂から「みずの日」が1998年に制定されました。

 京都市の清水寺を始め、全国に点在する清水寺の皆さんが作っている「全国清水寺ネットワーク」というところがあり、その皆さんが制定しました。

  図版 清水寺 クリック

 近年「水ビジネス」というのが話題になります。

 私が1970年代前半にアメリカに住んでいた頃、大きなガラス瓶でみずを販売するビジネスがあるのに驚きました。日本では、みずが良いので、このようなビジネスは成り立たないだろうとその時には思いました。

 ところが同じようなサービスが日本にも出てきました。オフィスを中心に、サービングマシンを設置して、その瓶を使ってみずを小出しにするものです。

 コンビニや自動販売機でもみずが売られています。

 アメリカにいた頃の私の予測が大きくはずれました。

 

■ 旧暦のひな祭り

 ひな祭りといえば3月3日と私達は思いますが、旧暦のひな祭りもあります。ひな祭りは、桃の節句とも呼ばれ、女の子のお祝いの日です。

 ところが、もともとは、男女ともが楽しむ行事だったのです。

 一般的には3月3日ですが、地域によっては、新暦にあわせてひな祭りを行います。

 明治時代に改暦があり、今日の暦が使われるようになりました。その時に、地方によって、旧暦と新暦のいずれかが別れたのです。


■ その他

 青岸渡寺開山忌
◇ 松山春まつり


【経営コンサルタントの独り言】

■ 東京の日本橋、大阪の日本橋


 関西の方は、日本橋といいますと、大阪の電気街をイメージされると思います。

 江戸の日本橋は、新鮮な魚介類の陸揚げ地でした。

 地方の方は、東京の日本橋がどの様なところか、写真でご覧になられても、東京が水運の街だということは想像できないかもしれません。

 桜見物のボートツアーがあるほど、海や川・運河で繋がっているのです。


 残念なことに、現在の東京の日本橋は、その直上に高速道路が走っていて、「江戸」という響きからは、ほど遠くなってしまっています。

 江戸っ子の中でも、日本橋育ちの江戸っ子は、自分達が“真”の江戸っ子と自負しています。そのために、高速道路が覆い被さった日本橋を苦々しく思っています。

 その、江戸っ子気質が、政府を動かし、高速道路を地下に通すことになりました。青空の下の日本橋を見られるのもそう遠くなさそうです。

 ちなみに、大阪と東京では「日本橋」の読みが異なるそうですね。

 大阪は「にっぽんばし」、東京は「にほんばし」と発音する人が多いとのことです。

「日本」は、伝統的には「にっぽん」と読むそうですので、大阪の人の方が、本件においては伝統に近いといえます。

 それにしても、自国の国名の読み方が統一されていないのもおかしな国ですね。

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■ 武田勝頼没

 たけだ かつより
 天文15年(1546年)−天正10年3月11日(1582年4月3日)

 戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐国(現山梨県)の戦国大名で、甲斐武田家第20代当主、通称は四郎です。

 信玄の正妻の子ではないために、性差の子供のように信玄の「信」の字を与えられず、後継者ともみなされていませんでした。当初は、高遠諏訪氏を継ぐことになり、諏訪四郎勝頼と呼ばれました。また、信濃国伊那谷の高遠城主であったことから、伊奈四郎勝頼ともいいます。

 武田信玄といえば、戦国武将を代表する一人ですが、信玄死後を引き継いだ武田勝頼の評判はあまり芳しいものではありません。

 しかし、戦国時代に詳しい歴史家の多くは、巷の評判ほど、無能ではなかったといわれています。

 信玄の死後、18城を勝ち取るなどして、初めは勝頼を軽視していた武田軍団二十四将も、次第に勝頼を理解するようになり、結束してゆきました。あの織田信長に「勝頼、侮るべからず」と言わせるほどでした。

 信玄が死の床で、勝頼に「信長・家康と闘うようなことが起こったら、自領に引き込んで闘え」と遺言したそうです。ところが、18城を勝ち取るなど、成功体験からの驕りでしょうか、設楽が原の戦いでは敵地に赴いて、信長・家康と闘うことになりました。

 信長の「三段撃ち」で有名な設楽が原は平地での合戦です。(歴史研究者の中には、三段撃ちは、実際にはなかったといわれています。)

 武田軍は、山地での戦いを強みにしていました。あまり、経験の多くない平地での戦い、銃対騎馬軍団という、新旧の戦法の差などもあり、勝頼は、武田武将の大半を失う惨敗に終わりました。これが、武田一族の滅亡に繋がるといわれています。

 勝頼の敗北、武田氏の滅亡は、騎馬軍団と勇猛な武将による成功体験に固執しすぎて、新しい時代の幕開けを読み切れなかったところにあるように、素人考えを持っています。

 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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