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経営者・管理職とコンサルタント

35年の実績と誠意

今日は何の日 話材からヒントと気づきを

40年余の実績で、皆様と共に歩んでゆきます。

 当サイトと連動し、平日毎日複数本のブログ発信をし、経営コンサルタント歴35年の独断と偏見から何かを感じ取っていただけると幸いです。
 経営者・管理職向けの記事、それを裏返すと経営コンサルタントなど士業の先生方にも参考となります。 
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■【今日の写真】 伝通院と於大の方

 伝通院は、徳川家とのゆかりが深いお寺です。於大の方の墓がありますが、徳川家康のご生母です。

 於大の方は享禄元年(1528)に三河刈屋城主水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)に岡崎城主松平広忠と結婚しました。家康はその翌年誕生しました。

 伝通院 於大の方
 
今日は何の日      1月8日
■ 初薬師

 毎月の八日と十二日には、薬師様では縁日が立ちます。正月八日は初薬師と呼ばれ、多くの参拝者が訪れます。

 昨秋、久しぶりに法隆寺や薬師寺を訪れ、薬師観音を拝んできました。子供の頃、お祭りの時に近所の「薬師様」に御輿が結集したことを思い出します。それほど、薬師如来は身近な存在で、われわれ衆生を病苦から救ってくださると言われています。

 ちなみに、元日に薬師様詣でをすると、その効能は三千日持続すると言われます。正月の初詣で薬師様を訪問した方は、九年分の先取りをされたことになりますね。

 

■ 鳥越神社どんど焼き

 どんど焼きは、左義長(さぎちょう、三毬杖)と呼ばれる、小正月に行われる火祭りの行事のことです。地方によって呼び方が異なりますが、日本全国で広く見られる習俗です。

 一般的には、1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに、長い竹を3、4本組んで立てて、そこにその年飾った門松や書き初めなどを持ち寄って焼きます。

 その火で焼いた餅を食べます。三色団子などを、ヤマボウシの枝に刺して焼いたりしますが、地方により異なります。

 道祖神の祭りとされる地域が多いですが、民俗学的な見地からは、門松などによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送るという意味があるとされています。お盆の迎え火、送り火などとも共通した慣習なのかも知れません。

 東京の鳥越神社のどんど焼きは、例年1月8日に開催されます。地方によっては、このように異なった日に開催されるところがあるようです。


■ 平成元年

 1989(昭和64)年1月7日に昭和天皇が崩御されました。7日午後に臨時閣議が開かれ、新しい元号として「平成」が決定去れ、翌8日から新しい元号の年が始まりました。後に総理大臣になった小渕官房長官が平成の文字を掲げてテレビ会見したことは多くの人の記憶にあるのではないでしょうか。

 因みに、「平成」というのは元号が始まった最初「大化」から数えて247番目の元号となるそうです。
 

■ 外国郵便の日

 1月7日は「外国郵便の日」です。

 1875(明治8)年1月7日に、外国人の多かった横浜の郵便局で、外国郵便の開業式が行われました。それまでは、外国郵便を日本政府は取り扱っていなかったのです。外国人居留地にあったアメリカの郵便局が行っていたのを、日本政府が業務を行うことになったのです。

 私が中学生の頃、切手収集がブームで、見返り美人や月に雁などの切手が欲しくてたまりませんでした。

 友達同士で切手の交換をしながら、自分の切手のジャンルを固めていきました。記念切手は皆が集めていましたが、それに加え、エリザベス女王の切手に焦点を当てて集めました。

■ その他
◇ 東京鳥越神社とんど焼き
◇ 初薬師


【経営コンサルタントのひとり言】

■ 伝通院は家康の生母の墓がある寺

 伝通院は、東京都文京区にあり、家康の生母の墓がある寺です。秀忠の娘、千姫の墓もあります。

 このお寺は、臨済宗です。

 臨済宗は、曹洞宗、日本達磨宗、黄檗宗、普化宗とともに日本の禅宗の一つです。

 歴史的にみますと、臨済宗は鎌倉幕府や室町幕府との結び付きが強く、室町文化は臨済宗の文化と言っても良いほど大きな影響を与えました。

 京都五山も鎌倉五山も、全て臨済宗の寺院で占められていることからも臨済宗が強かったことがわかります。

 戦国時代に入りますと衰退気味となりましたが、江戸時代に白隠禅師によって再建されました。

 臨済宗の特徴の一つが、法嗣という師匠から弟子へと悟りを伝達することで今日にまで受け継がれてきています。
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■ 徳川綱吉

 とくがわ つなよし
 正保3年1月8日(1646年2月23日)−宝永6年1月10日(1709年2月19日)

 徳川綱吉は、犬公方と呼ばれる江戸幕府の第5代将軍です。

 慶安4年(1651年)4月、三兄の長松(のちの徳川綱重)とともに賄領として近江、美濃、信濃、駿河、上野から15万石を拝領し家臣団を付けられました。同月には家光が死去し、8月に長兄の徳川家綱が将軍宣下を受けました。

 寛文元年(1661年)8月、上野館林藩主として城持ちとなったことで所領は25万石となりました。12月には参議に叙任され、この頃「館林宰相」と通称され、徳川姓を名乗りました。(館林徳川家の創設)。

 館林藩主となりましたが、綱吉は、基本的に江戸在住であって家臣の8割も神田の御殿に詰めていました。

 延宝8年(1680年)5月、家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、家綱が40歳で死去したために将軍宣下を受け、五代将軍となりました。

 綱吉は、堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出しました。それまで、「左様せい様」と陰口された家綱時代に下落した、将軍権威の向上に努めました。

 また、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらい、荻原重秀もここから登用されています。外様大名からも一部幕閣への登用がみられるなど、政治手腕は、犬公方とさげすまされるのとは逆の評価も得られています。

 この頃から有名な生類憐みの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになりました。

 犬公方と呼ばれるようになったのは、当時の江戸では辻斬りや動物虐待の庶民の生活を見て哀れんだ上、母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して、生類発布しました。それが、悪評を呼ぶ理由のひとつが、自分の考えをキチンと周囲に伝えないがために誤解されたことによるものです。どうやら綱吉は、心の優しい人だったようです。

 一方で、側用人を重用しすぎて、忠臣蔵で語られるようなことも行っています。

 綱吉は。宝永6年(1709年)1月10日に成人麻疹により、享年64歳で死去し、上の寛永寺に静かに眠っています。

  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/taitouku-uenokouen03.htm


■ 上杉景勝

 うえすぎ かげかつ
 1556年1月8日 − 1623年3月20日

 戦国時代から江戸時代前期にかけての大名で、豊臣政権の五大老の一人です。米沢藩の初代藩主となり、上杉宗家(山内上杉家)17代目で、同家16代目上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目となります。

 初名は長尾顕景で、同じ長尾家出身の叔父・上杉謙信の養子となり、名を上杉景勝と改めました。

 実子のいない謙信の死後、上杉家の家督相続を争った御館の乱で勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりました。

 会津藩120万石を領し、秀吉の死後、徳川家康が景勝討伐に向かい関ヶ原の戦いが幕開け、景勝は、石田三成ら西軍に付き敗北しました。

 戦後、徳川家康から上杉氏の存続は許されたが米沢藩30万石へ減封となりました。(【Wikipedia】を基に作成)

■ 明恵

 みょうえ
 承安3年1月8日(1173年2月21日) − 寛喜4年1月19日(1232年2月11日)
 幼名:薬師丸、号:明恵房(房号) 諱:成弁→高弁 尊称:明恵上人、栂尾(とがのお)上人 宗旨:華厳宗

 鎌倉時代前期の華厳宗の僧

 紀伊国有田郡(現:和歌山県有田川町)に生まれ、幼くして高雄山に登り、華厳、倶舎などを学びました。

 その後、諸寺に遊学し、密禅の諸教に通じるようになりました。

 華厳宗第十七世の法脈を嗣ぎ、後鳥羽上皇の勅により、栂尾山を賜りました。鳥獣戯画で有名な高山寺に晩年を過ごし、そこで歿し、廟は高山寺禅堂院にあります。

 代表的な著作として「摧邪輪」がありますが、その他多数をちょしています。

 栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名です。高山寺には、日本で最初の茶畑があります。



Wikipedia】 明恵

 承安3年(1173年)18日、高倉上皇の武者所に伺候した平重国と紀伊国の有力者であった湯浅宗重四女の子として紀伊国有田郡石垣庄吉原村(現:和歌山県有田川町歓喜寺中越)で生まれた。幼名は薬師丸。

 治承4年(1180年)、9歳(数え年。以下同様)にして両親を失い、翌年、高雄山神護寺に文覚の弟子で叔父の上覚に師事(のち、文覚にも師事)、華厳五教章・倶舎頌を読んだ[1]16歳で出家し、文治4年(1188年)、東大寺で具足戒を受けた。法諱は成弁(のちに高弁に改名)。仁和寺で真言密教を実尊や興然に、東大寺の尊勝院で華厳宗・倶舎宗の教学を景雅や聖詮に、悉曇を尊印に、禅を栄西に学び、将来を嘱望された。20歳前後の明恵は入門書の類を数多く筆写している。

 【 注 】
「今日は何の日」「今日の人」は、Wikipedia、富山いづみ氏のサイト、他を参照し、独自に記載したものです。従いまして、当サイト及びブログ等々に関しては、無断複製転載及び模倣を固くお断り申し上げます。
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